マリア信仰は、不思議な信仰であると私は思う。教会をそれほど多くを見ていないものの、フランスより南の国ではやたらと多く、マリアの像、そしてマリアの絵画は、信仰の対象にさえなっている。
神の子のイエスの母だから、当然との意見もあるが、仏教では釈迦の母への敬慕はほとんどなく、日本で有名な、空海、最澄、法然、親鸞、日蓮などの母親でさえ、多くの人は知らないだろう。イスラム教は深くは知らないが、そんな事はないと思う。
ここでは、マリア信仰について、考えていきたい。NekoNekoSMの独断的な、文献にも基づかない偏見で、答は既にある。それは、希望への願望だと思う。キリスト教は、いや宗教そのものが、一般的に愛の宗教とは程遠く所から、一般的に流布したものだと思う。幸福になると云うより、不幸そして苦労から避ける、言葉はきついが逃避する道が宗教への入り口ではないかとさえ思う。人間の意識の中では、天国より地獄が先に登場したと思う。地獄への恐れ、そして地獄からの逃避が宗教への心理的なインセンチィブとして働いたと思う。勿論苦悩から解脱したり、自己修養の勧め、などが基礎として起こり、最後に簡単に救いの道として用意されたのが、キリスト教では、マリアを通しての救いの道が、希望ではないかと思う。
原始キリスト教は、けっして愛の宗教ではなく、戦いそして自己修養を強く求める厳しい宗教であったのかもしれない。本来、救いを得るのは容易い道ではない。それは今も残る奥地の修道院がそれを示していると思う。それが、愛の宗教へと転化していく過程に、マリア信仰が強く影響していたと、私は思う。
画像をクリックすると、拡大画像になります。
マリア像やマリアの絵は、例外なく若い女性が祈ったり、微笑んだりしている事が多い。キリストでは、十字架のキリスト、そして十字架を担ぐキリストなどの受難の光景があるが、マリアは微笑んでいる。そして次への希望を、明日への希望を常に人々に与えている。明日への希望が、マリア信仰ではないかと私は思う。
画像をクリックすると、拡大画像になります。