次平には、5才違いの兄がいた。何事も兄の真似が好きな次平は、剣術を同時に習う事になった。木刀により小さい幼児なので、子ども用の木刀を作らせたのだが、次平は普通の木刀を降り続けた。木刀を振るために、身体の訓練も続けた。やがて腕の力は、非常に強くなった。
青年の頃には、木刀でも岩が割れるようになっていた。剣術は、血筋であろうか元来素養があった。しかし練習相手が怪我がする事も増え、兄よりも世間の知名度が上がり、父の後にという声も挙がるようになった。兄を好きな次平は、兄に競う事は論外であった。自分の練習相手の腕を骨折させた次平は、御殿医であった谷助太夫に連れていった。谷は当時の医師に違い、蘭学についても造詣が深く、解剖絵図なども所持していた。谷に頼み、医術について学ぶようになった。やがて剣よりも医術に興味が移っていった。もっとも剣では、練習相手がいなくなっており、本気を出せば相手を怪我をさせるので、朝晩の素振りしか出来なくなっていた。もっとも筋肉について医学的知識を得た次平では筋力の付け方を学び、その練習も加えていた。この頃の剣術は、本質には道場剣術であり、次平のように豪腕で、相手の木刀も折る剣術は必要ではなかった。父の治部太郎左右衛門も次平の医術勉学を認めざるを得なくなっていた。やがて医術についても知識としては、谷が教える事は少なくなっていた。医術は経験と取り扱った症例が必要である。暫く谷の助手として努めていた。その頃は御殿医といっても市中の病人も診る事が多く、病が癒えても、筋力が衰えていた人の筋力回復について次平は、興味を持ち、試行錯誤を繰り返していた。病の峠を越すと、谷よりも次平が中心となり、通常の日常への復帰しやすい治療を行うようになっていた。治療は日常生活への復帰であり、筋力維持についての関心が強かった。病気そのものの治療と共に、より短期間で復帰する事を中心として治療に努めた。
谷はやがて、次平に長崎留学を勧めた。新しい西洋医術はまだ長崎が中心だった。次平には、幼い頃から好きな早苗がいた。その早苗との語らいと落ち着いた暮らしが気に入っていた次平は、今の生活に満足していた。そのため新しい医術への興味との拮抗が続いていた。早苗の祖父が病気に掛かり、手当も虚しく亡くなった。一種の心臓疾患であった。その病の事は、谷はもとより次平も治療方法がわからなかった。次平は、長崎留学を決心した。次平は、早苗をつれて行きたかったが、学資が十分とは言えず、つれていけなかった。
長崎での2年間は、新しい知識に触れ、心が洗われるようであった。下宿のおかみさんが病気になり、その治療を行い、その治療方法に感心しておかみさんが、周囲に名医が下宿していると触れ回った事もあり、半日は治療する羽目になったが、学資の目途もついた。早苗が18才になり、そのため帰郷して、早苗と婚礼を上げ、長崎で一緒に暮らそうと考えた。早苗にも決心をうち明ちあける文を送った。
帰郷した治部次平は、早速早苗に会った。早苗の表情に戸惑いがあるものの、仮祝言を上げて、一緒に長崎に行く事に同意した。今は殿様になっている松平越中守忠則は、若様時代の時に治療した事もあり、挨拶に行くと、早速御殿医として出仕を求められた。もう3年間勉強したい意向をお願いし、必ず出仕する事を約束させられた。殿様への挨拶を終えた次平は、ふと胸騒ぎを覚えた。明日には早苗と長崎へ行く打ち合わせをするために会う事になっており、今は嬉しい筈であった。その後城中での帰国の挨拶もほとんど薄い記憶の中で終わり、家路を急いだ。途中 早苗の家が慌ただしいのが気になったが、明日には会えるとの思いが挨拶に行くのを止めた。帰宅後 食事を取り、自分の居間に戻った時、慌ただしく、使者が門を叩いた。早苗が自害したとの事であった。理由は分からないとの事であったが、取りあえず早苗の家に急いだ。
配下の目付を通して、早苗の死を知った城代家老中山勘三郎の対応は速かった。殿様が代替わりして、英明な忠則は、自分の涜職に気付いているようであり、当時の相手先である三崎屋を処分させていたが、このままではまだ不安が残ると思っていた。それに、息子の道之助が、次平が長崎に行っている内に、早苗に乱暴してしまった。早苗が自害しようとしているのを説得して、黙っていれば分からない。道之助には、きつく叱りつけて江戸にいかせる。次平と一緒になりたくないのかと言葉巧みに説得していたが、早苗は耐えきれなくなって自害の道を選んだようだ。このままでは自分の涜職に感づいている原助三郎を敵にまわす。早苗の父である原助三郎は、次席家老で勘定奉行も兼ねている。原助三郎を殺し、切腹したように工作し、簡単な遺書も偽造した。しかし急いで偽造したので、切腹時の血で判明しにくいようにした。
早苗は、父の涜職を恥じてのは、自害という事になり、親子の葬儀は寂しいものであった。 葬儀を済ませ、早苗の記憶の残る故郷を去り、長崎に帰る事にした。長崎の自室に戻ると、なんと早苗からの文と根付けが机の上に置かれていた。早苗が近くに出かける家人に次平の根付けを頼み、それと共に次平宛に送るよう依頼していたものであった。頼まれた家人は怪訝に思ったものの、忠実にその依頼を守ったものであった。 そこには、驚愕の事実が述べられていた。城代家老の息子に辱めを受け、一時は黙って、貴方と一緒になろうと思ったが、やはり私には出来ない。と言うものであった。
次平は復讐を誓ったが、中山道之助は江戸にいるが、帰国する時期が不明であり、又早苗が辱められた事を明らかにする事が早苗のためかどうか悩んでおり、今は復讐のやり方が分からなかった。朝晩の素振りにも早苗の顔が浮かび、木刀に力が入った。
医師は、目の前にある病人を治療するものであるが、この頃の次平は手があくと、復讐方法を空想する事が多くなった。
たまたまある旅人が、担ぎ込まれてきた。心臓疾患であるが、手足の筋肉はたくましかった。心臓疾患系については、早苗の祖父の死以来、研究を重ねてきた。手当を重ね、発作の回数は減り、回復していった。しかし鉄平の心臓疾患は外科的治療が必要と思われた。本格的回復には、外科的な処置が必要であったが、まだ外科的な治療が出来ない次平は、恩師にあたるカルバル先生にその処置について質問し、研究を重ねた。
まだまだ次平にとっては、研究途上の治療であった。その旅人は、忍上がりの盗賊であり、自分の病が心臓である事をよく知っており、もう自分の寿命は長くないと悟っていた。これは治療するものにとってはやりにくい事であった。次平は、正確に今の現状とこれから行おうとする外科的な処置について話をした。成功確率はまったくなかった。
その旅人は、鉄平といったが、次平は、「これからのこの病で苦しむ人のために、私の練習台になってくれないか? 私に貴方の命をくれないか?」といった。鉄平は受け入れた。ただ次平の研究と調査はまだ一月近く掛かった。鉄平の体調維持も図った。鉄平はこんな時でも訓練を欠かさなかった。
手術はカルバル先生も立ち会って、行われた。カルバル先生も興奮していた。カルバル先生も、正直経験はなく、文献でしか知らなかった。ヨーロッパではまだ数例しかなく、麻酔や止血方法が不十分な段階では、短時間で手際よく行われ、患者に体力がある等の条件がいるとされていた。
ほとんど奇跡的な手術であったと言える。異常箇所が簡単で、少ない文献にも記載されていたものと似て等の幸運にも恵まれていた。カルバル先生は日記には記載したが、ついに公表する事は避けた。自分でも信じられなかったからであったし、未開の日本で、このような手術が実施された事など信じる者などいないと思ったからでもあった。
鉄平は、手術後 1カ月経つと、ほとんど常人と差がなくなった。次平は鉄平に「預かった命は貴方に返す。私が助けたのでなく、天が助けた。天の向くまま生きられるがよい。」といった。しかし鉄平は、次平の代理人のような存在になり、医院の運営などにも関与していった。鉄平は近くに家を購入し、医院に改造して、次平に済むように勧めた。下宿のおかみさんも、毎日数多くの患者が押し寄せるのに閉口していた事もあり、身の回りの世話をする女の人を捜してくれる事になった。
鉄平は、盗賊時代に溜めた金が数千両あった事もあって、動けるようになると金を取り出して広い屋敷を購入した。この屋敷を医院に改造した。 次平は、どんな患者でも診察した。するともともとお金がない人が押し掛けてきた。薬代すら払えない患者が多かった。鉄平は薬代を払っていた。元気になったとは云え、病み上がりでもあった鉄平は、福岡にいた盗賊時代の配下であった純次と痺れ薬や睡眠薬などを分けて貰っていた源三を妻子ともに、長崎に読んでいた。源三は、元々薬種問屋に勤めていた事もあり、薬には詳しかった。そこで鉄平は源三に薬種問屋をやらせる事にした。その方が薬代が安くつくし、源三の働き場所も確保できた。純次は、情報収集させてきた事もあって、町の噂に敏感だった。次平が治療している病人が、治ったあと、無理に働いて、又身体を壊す人がいる事を嘆いていたので、人入れ屋の小さい店を探し、病後でもできる職業を探させる事にした。鉄平たちが、飲みに行っていた隠れ家のような飯店の親父が、博打に懲り、店を手放す羽目になった。おかみさんが嘆いていたのを聞いて、借金を肩代わりした。その代わり、医院への食事を作って貰う事になった。
鉄平は、これで次平への恩返しは終わったつもりであった。ただ次平は、噂を聞いてやってくる金持ちからもそんなにお金を取らなかった。鉄平は次平のように純粋でもなかった。貧しい人たちに援助だけしていてはやっていけなくなると感じていた。
もう一度盗賊をやるつもりはなかったが、金は、金持ちから貰う事が一番と考えた。向こうから来るように仕向ければいいと考えた。金持ちたちに、純三を使い、次平は名医と吹き込ませる事にした。次平はそれでも、行き倒れの人を介抱したり、無一文の人を介抱していた。その中に、町人風体の男がいた。三之助と云ったが、武士だと一目で分かった。元気になって手伝ってもらう事になった。人入れ屋の純次が面倒を見た。次平は、市中で有名な名医になっていった。
純次「親分、三之助という奴は、人に噂を振りまくのが、うまいですよ。あっしがこっそり親分に言われて、次平先生の評判を流しているでしょう。あいつは駕籠書きに噂をいったり、あっしの女房にも髪結いで言わせたりして、あっと云う間に、噂を広めてしまいました。」
鉄平「親分じゃない、鉄平さんと言え、あっしではなく、手前とか私とか言え。いつになったら、分かるんだ。三之助は、どっかの隠し目付だったらしい。あまり人の過去は知りたがるな。」
純次「そうでした。気をつけます。」
次平を慕う患者が増え、医師が足りなくなった。腕はいいが、留学先の先生と不仲になったり、留学中に女や博打で身を崩した医師たちを、三之助が集めてきた。中には真面目な医師もいたが、長崎留学の資金がなくなった医師もいた。医師が増えると、次平は専門とする分野を分けて治療していく事にした。内科や外科や子供たちを見る人などに分けていった。三之助の宣伝効果もあって、医院は大きくなり、新しい大きな医院も増設した。金持ちたちにも次平の名前は浸透して、金も貯まってた。源三も次平の評判が上がるのを利用して、薬種問屋を大きくして、薬草園も買い取り、その上南蛮由来の薬も調達し、こっそり次平に流していた。そして腹心の伍平たちを集め、薬草園と原末を管理させた。そしてますます次平の評判は上がり、薬種問屋の利益も増えた。鉄平は飲屋以外にも料理屋も買い取った。料理屋で、料理が下手だと不味いと文句言っている嫌味な男がいた。浪人風体の男だったが、鉄平は頭に来て、自分で何も出来ないくせに、ここより美味いものが作れるのかと言った。その男は京二と言った。京二は料理を作るととても美味しい料理を作った。話を聞いてみると、医師で長崎留学中に、女に狂い、身を持ち崩した。女のひもになり、料理を作っている内に、料理が好きになった。ただ女には、金持ちの旦那がつき、京二が邪魔になった。京二は自尊心の強い男で、家を飛び出してきた。医師と聞いたので、次平の下で勉強をやり直してもらおうと思った。次平たちの医師は、知識や腕も優れた医師グループになっており、京二は自尊心の強い男だったが自分の腕も冷静に見せれた。食による医療を考え、病院食のようなものを考え、次平たちと相談して、医院や病人の家庭に配り始めた。
鉄平と京二そして三之助は、女も一緒に買いに行った。この三人はよく仕事もしたが、女遊びは好きだったが、鉄平はなぜか女に深入りせずに、金だけで遊んだ。京二は女のひもにまでなったが、女を信用できなくなっていた。三之助はあまり自分の事を話さなかったが、某藩の目付で、諜報活動を行って、殿様の乱行を知り、諫めたが、結局居づらくなって、婿養子に遠縁の子を立てて、継がせた。三之助自身も婿養子だったし、子供もできた。するとその嫁は息子に期待をかけ、三之助は隠居の形で、家から放り出された。三之助も女は信じなくなっていた。鉄平は、次平のために色々と金も使ったが、それなりに儲けていた。
次平の医院も大きくなり、もはや病院と言ってもよかった。源三の薬種問屋も儲けていた。料理屋の板前は、病人用の食を作らされて、文句を言った。京二も病人食以外に美味しい料理を作りたかった。鉄平は料亭のような高級料理店も作り、板前のご機嫌も取った。京二もそこでは、豪華な料理を作った。
カルバル先生は、病院を密かに訪れて、感嘆のため息をついた。こんな総合的な病院は母国にもそんなにない。しかも病後回復を重視する次平の考えもあり、今で言うリハビリも重視していた。
鉄平は、次平が時折、暗い表情で木刀の素振りをしているのが気になっていた。木刀の振りはすさまじく、剣術の腕はすさまじいものである事は分かったが、暗い怨念が感じられた。病院での次平の表情とは変わり殺し屋の表情にも感じられた。
鉄平が声をかけると、その表情は直ぐに普通の表情に変わった。次平は後半年で故郷に帰らなくてはならない。病院や今の体制は鉄平を中心として維持してくれる事を鉄平に頼んだ。鉄平は医師や問屋などで、それとなく、留守の体制を作っていった。もとより鉄平自身は次平に付きそうつもりであった。
鉄平は、ある日 次平が墓を購入している事を知った。次平の怨念は分からないが、決する事があると憶測された。 ただ次平が手を血で染める事は防ごうと思っていた。そのため次平の松江に帰る日を遅らせると共に、帰る道中に次平に診察させて、復讐の気勢をそがせる事についていくつか方法を案じた。鉄平の独り言
次平はついに早苗の事をうち明けた。鉄平は自分が付いていく事を次平に約束させ、事の真相を探る事が重要で私に任せて欲しいと次平を説き伏せた。そして三之助を先行させた。
長崎を去る1カ月前に、医師団の主立った人達にうち明けた。その夜 医師団の中心となる石部が、次平と鉄平を訪問して、こううち明けた。「3年間はなんとか今の状態は維持できるかもしれない。だがこれ以上はバラバラになる恐れがあります。次平先生は、ご自分では意識されていないか、神と思われている。鉄平旦那は神と人の間で、神さんに値段交渉はできいものの、鉄平旦那なら話ができる。次平先生が長崎の大旦那から治療を求められた時は、次平先生は若く研究熱心な医師をつれて診察し、時々訪問して診察する。この医師に聞いた話では最初の診察でほとんど治療されている。これは常人のなせる業ではない。しかもその治療を受けた大旦那は鉄平旦那と話をして色々な援助をしてくれている。今の状態は神とも言える次平先生と巫女ともいえる鉄平旦那が支えています。次平先生や鉄平旦那が静かに華美に走らず暮らしているのに、自分の待遇に不満は言えない。幾つかの料理屋を鉄平旦那が買い取り、不満を漏らす医師や問屋の番頭を招いて話を聞いてやっているとも聞いています。ぜひ3年後戻ってくる事としてみんなに話をしてほしい。こういう私が漁色にふけるかもしれない。人間は弱いものです。」
鉄平は話を聞いた後、密かに石部と会い、「今度の旅は次平先生にとって、復讐の旅でもある。次平先生は死を決意しているが、自分は先生の手を血に染める事はしたくない。自分は次平先生にけっして復讐させない為についていく。次平先生は剣術の腕はすさまじく、簡単に復讐はできるだろうが、私はその前になんとかしたい。そのため泊まる宿場で、次平先生に治療させるようにして時間をかせぐ。長崎にも応援を求める事もあるかもしれない。協力して欲しい。会計については、両替屋の赤目屋吉造に金を預けているので、必要な時は相談して欲しい。」
長崎を去る2週間前に、次平は、みんなの前で故郷の殿様と約束しているので、数年間は故郷に帰らなければいけない。みんなは今まで通り元気でやって欲しいと話した。
次平は、鉄平と2人で帰るつもりであったが、同伴したいと言う者が多く、多くは今までの診療体制の維持を名目に説得したが、どうしても付いていきたいと次平の秘書役とも言える若い医者 田宮、中山たちと長崎との連絡役として鉄平たちそして荷物持ちとして、次平の最初からの患者であった相撲取り上がりの森平がついてくる事になってしまった。
一方 鉄平は、松江での情報収集を純次に頼んだ。原助三郎の死と城代家老中山勘三郎と勘之助の動静について知りたかった。鉄平は途中で病人に会った時、次平に、見捨てる事ができるのですかと言ったので、必要な人が増え、思いがけず大勢で移動する事になり、長崎からの連絡及び故郷からの連絡が宿場毎に入る事になった。鉄平の連絡役の1人が早立ちして、宿場の宿を手配する段取りになった。鉄平は、次平が早く松江に帰ると工作する時間がなくなるので、困るのである。
早く故郷へ帰りたいとの次平の思いは、最初の宿場で容易ではないと思い知らされた。最初の宿場では、次平が来るとの知らせは近在だけに早くから多くの人が知っていたし、鉄平も知らせるようにしていたからでもあった。それ以降の宿場での旅籠は、次平の思いをよそに、次平たちの宿と近在からの病人家族の宿と治療する寺の手配が、旅籠の主人たちが寄合の上、決められるようになった。鉄平は、三之助に頼み、次平の評判を長崎から福岡までの街道筋で高めてくれた。奇跡の医者だ、誰でも助けてくれる医者だ。心の病に詳しい医者だ。若いけど優れた医者だと。三之助は、噂は噂を呼んで、勝手に大きくなると知っていた。それに実際、三之助自身も次平に本当に助けられたのだ。鉄平は緊急用の丸薬も用意させていた。診察して貰った病人は一時的に急回復した。そしてみんなに触れ回った。三之助は情報の怖さも知っていた。虚像は虚像なのだ。初めは抑えめにしていた。しかし次平の実像は大きくなっていった。三之助も虚像を大きくした。虚像と実像は競い合った。そして人々の治りたい思いが拍車をかけた。
鉄平の計算違いは、作った虚像より次平が大きくなっていった事だった。次平は応急的な薬だけに頼らなかった。生活指導や持続的な漢方本来の効能も理解していた。それに的確な診断は、多様な病人を診る事で飛躍的に伸びていた。元々、次平は、長崎でも1人の医師として患者に接しようとしていたが、多くの患者や医師たちを抱え、直接患者を診察する機会そのものは減っていた。それが直接医師として、多様な病人に触れるようになり、元来の次平の能力を開花させていった。
それに鉄平は、お金がなく医師に診ても貰えにくい病人たちにも、お金は関係なしに診て貰えるとの宣伝をしていた。鉄平は、次平が簡単には進めないようにしていた。次平は自分が良く知らない病気では長崎に連絡を取ったり、長崎から医師も出てきた。益々進めなくなっていた。
鉄平は、到着後は奉行所への挨拶や問屋への連絡など行いながら 松江からの連絡を受けていた。純次は、大体の情報は掴んでいた。数年前の涜職の詳細は把握するのは難しいが、現在の城代家老中山勘三郎及び息子道之助の資産状況について調べるのは容易であった。もう一度更に細かく調べ上げるように指示していた。それに鉄平は次平の性格を知っていた。病気で苦しんでいる人がいれば、それを放置して旅を続ける事が出来ず、それによって次平の心そのものも治療される事も知っていた。
長崎から近くの宿場では、移動診察の形となり、近在する奉行所にとっても保健や医療体制を考える形となり、次平らの移動については、滞在日数や動向については、奉行所に報告を求められる事になった。
福岡の城下にたどり着くまで、1カ月以上掛かってしまった。福岡では医師も多く、そこでは、する事もないだろうと考えていた。同伴者も医師は福田や木田も加わり、薬種問屋と人入れ屋の番頭たちや調理人も加わり、総勢15人を超す集団となっており、福岡で休息をとってから、同伴者の多くを長崎に帰そうと考えていた程であった。到着した時も待っていた患者も10人に満たなかった。しかしその思いは翌日には簡単に裏切られた。早朝には治療場として借りた寺から使者が来て、30人を超す患者が来ている。出来れば早めに来て欲しい旨の口上を伝えていった。次平が心の病の専門家である事が知られており、その事を知っている医師の紹介状を持っている患者も多かった。治療そのものが複雑し高度な検討が必要になる事から、ある程度の滞在は必要にならざるを得なかった。それでも1週間ほど滞在していると、目途も見えてきた。
宿で休んでいるときに、お城より使者が来て、参勤交代で国に帰っている黒田道隆が会いたがっているので、明日来るようにとの事であった。その日、鉄平は奉行所によばれ、郡部での治療についても検討して欲しい旨の依頼を受けてきた。
次平は、翌日城中で黒田道隆に拝謁する事になった。次平は松江に帰り、御殿医となるための道中で、患者たちの依頼で留まり、お騒がせしている旨を詫びた。黒田道隆は、領民たちのため今後ももう少し留まり、医師の少ない郡部についても世話をしてもらいたい。そして藩の医師を付き添わせるので、教育してやって欲しい。最後に言いにくそうに、息子を見て欲しいと小声でいった。生まれつき蒲柳の体質の若君に国を見せるために、特に幕府に頼み、同行させているとも言われた。松江公には、こちらから暫く当地で病人を診て貰ってるので、帰参が遅れる事は連絡してもいいと言われた。
早速 若君を診察した次平は、先天性心臓疾患を持っている事が分かった。御殿医は、恐ろしくて容易に言い出せなかったようであった。聡明で利発な若殿であったが、このままでそれ程長く生きられないと思われた。次平は診察後、いくつかの漢方処方とともに南蛮由来の薬を調合した。診察後 黒田公に正直に病状について説明した。黒田公は謝意を述べ、食事を共にしたいと言われた。控えの間で暫く休むようにいわれた。次平はオランダの文献の事を思い出していた。長崎に使者を出してその文献を取り寄せるとともに、小児を専門としている大江や黒崎に意見を求めた。
呼び出しを受けて、次平は黒田道隆にあった。黒田道隆は食事を給仕が終わると人を遠ざけた。黒田公は、いきなり聞いた。若君は何年持つか? 次平は答えた。何もしなければ3年。黒田公は何かできる事があると言う事か。それは分かりませんが、何か出来る事があるような気がしています。そして 言った。今日調合した薬の中に、南蛮由来の薬が入っています。現在の症状は直ぐに回復されると思います。ただ若君は心そのものについて異状な形態をしている箇所があると思われます。そうであれば、それを修復しない限り、完全に回復する事は出来ません。長崎で手術をしましたが、若殿に出来るかどうか分かりません。本当は異常な形態をしていないかもしれません。密かに南蛮の書物などについて検討させ、薬だけである程度の治療が出来るのかについても検討しております。これは英明な黒田公だから、お話します。表面的には、一時若君は回復されたようになります。その時に慎重に診察して行きたいと思っています。
その南蛮由来の薬はご禁制の品なのか? それは違います。元はご禁制の薬かもしれませんが、今は、私たちの薬草園の薬草から取りますし、幾つか改良しています。ただ誤解されないように、いつもは、こんなに詳しく説明しません。私ども一行の中には、薬種問屋の番頭である源三も加わりました。源三は漢方薬草に詳しく、漢方以外にも詳しい。薬草は地域によりその効能に差があります。
最後に黒田公は、松江には行かず、当地で住む事は出来ないのか? 当地は長崎にも近く、色々な情報も入る。領民たちもそちたちの治療を望んでいるとも聞く、現に郡部からは、そちたちが行く事を望んでいる。余は治療は医師たちだけが行うと思っていた。しかしそちたちは、病人の食事の世話もし、食も治療の一つと言っており、調理人も同行させている。あまつさえ、病後の回復の職についても相談に乗っていると聞いた。
次平は、松江の殿様には私から帰参が遅れる旨を連絡するように致します。一度殿様に約束しました事ですので、一度帰参しない訳にはいきません。黒田公は笑った。余でさえ そちたちを旅だせてたくない。まして松江公は、そちを家臣と思っているようだ。松江から出るのは大変だと思う。そちは、聞く所によると、剣術指南役の次男ではないか。まあ無理は言わないが、若の事は宜しく頼む。薬については余は分からないので聞かなかった事にしておく。余で出来る事があれば、力になる。そして手を叩いた。若者が顔を出した。藩目付の谷本真之介であった。「真之介 次平の力になってやれ 次平からの頼みは直接余に話せ。城代の夏木を呼べ」
暫くすると 年輩の恰幅のいい武士が顔を出した。「夏木 しばらく若の面倒を次平にみてもらう。御殿医たちにもその旨を告げよ。郡部についても巡回をしてもらう事になった。ただ松江公への帰参の道中故、長逗留は出来まい。次平がいなくなったら不平が出ぬように、次平たちの手助けをして黒田藩としてのやり方を考えくれ。 谷本は暫く、余が直接指揮する。そして谷本は次平の手伝いをする。 松江公には若が急病になり、当地に滞在していた次平が治療をしてくれた。次平は名医であり、余人には返られないし、若も信頼している。暫く帰参が遅れるが許されたいと使者を出せ。」 夏木は一瞬にして悟った。要するに次平に対しては何もしてはならない。
次平は暫くお城にいて、若様の様子を見なければならない。市中での治療と若様との診療に明け暮れる事になったが、暇を見付けては郡部巡回に同行する事もあった。
京二は、忙しくなった。長崎の料理屋から応援を依頼するとともに、当地で調理人を捜して、病人用の食事等について手伝わせた。人入れ屋の三之助が同行させていた意味が彼にもわかった。三之助は、そこの土地で、どの仕事がどのように必要かなどを細かく知っていた。
薬種問屋の番頭である源三は必要となる薬草や薬の手配等を行っていた。医師たちも薬が必要な時は直ぐにある事が普通と思っていた。ある時医師のだれかが、なぜ直ぐにかなり珍しい薬もすぐに使えるのだろうかとあと疑問におもった。源三は患者の病名とその症状を把握して、薬を手配していた。貴方は本当は医師ではないかと言うと、「単に慣れですよ」しかし医師はこの時次平の言葉を思い出していた。医師は薬だけを調合していては2流の薬屋にしかなれない。よく考えて治療しなくてはならない。慣れだけで、投薬してはならない。
次平たちの診察を見た御殿医は、治療が終われば帰ろうとする同輩に、病人たちの食事の膳をよく見てみる事を進めた。その膳は一見すると同じ膳であったが、少しつづ異なっていたし、違う料理も並んでいる事もあった。病状と病人の嗜好についても調査されているようであった。病人の家族についての食事指導も適時おこなれていた。それを知ると次平たちの治療については、良い医師たちを集められば、それほど驚くべき治療をしていないと思っていたその御殿医は悟った。一人の患者の状態は、多くの人が共有されているのかもしれない。明らかに個人として名医に入ると思った田宮に聞いてみた。例え一人の患者に対した下した診断は、次平先生の診断でも鵜呑みにしないで、批判の対象として公開され、その診断歴は、看護や薬の手配の元締め及び調理人の長にも公開され、色々な意見が付け加えられる。翌日の診療時には、夕べの食事と摂取した量が分かるようになっている。
田宮は言った。「逆にそれも分からないで診断できる人の方が名医ではないか」
一方鉄平は、思いがけず手に入った時間に喜び、今までの状況を整理してみた。
原家は、代々次席家老職を勤める旧家であり、助三郎は温厚篤実な人として知られていた。
数年間に渡る御用商人 三崎屋徳平との間に贈収賄があったという容疑であり、金額は数千両に達するようであった。忠則が事件を不審に思い、遺書は判読不明と言うことで、勝手に切腹した事だけを不届きとして、お叱りとするものであった。尚使途不明金については尚吟味中とした。原家は遠縁の子を立てて継がせる。若輩故に、次席家老と勘定奉行の職ではなく、家老格の閑職とした。
三崎屋は直前に盗賊に入り、家が焼かれ、徳平も殺されていた。盗賊の内 2人は山の中で死体で見つかっていた。助三郎の書いたとされる自白書は切腹の時の血で文字が滲み、判別もしにくく、原の筆跡とは違うと言っている者もいた。なにより贈賄を受けたとされる原の家では、5百両程度の金子しかなかった。蔵には盗賊が入り、家宝とも言える掛け軸数点と左文字の名刀が盗まれており、同時に金子も盗まれた可能性はあったという指摘もあったが、今ではなんとも言えない。原が城中で切腹した時に盗賊が入るとはあまりにも出来すぎていた。また切腹も、襦袢が白でない、刀を直接握り、半紙で刀を持っていない等の不自然なものであり、勘定奉行と三崎屋とは直接関係もなく、松江公自身も納得していないが、関係者が亡くなっては、吟味中といってもそれ以上進めようもないままで放置されていた。幸い松江藩では数万両の蓄財もあり、吟味中として放置されていた。
鉄平は、事件の詳細を掴むと、城代家老とその息子の資産状態について調査を進めた。松江藩の城代家老といってもその資産はあきらかに多すぎるものであり、なんらかの不正を示唆しているものであった。
鉄平は、盗賊時代の配下の2人 藤一と純次に 別々に調査をさせていた。その一人の藤一には、城代家老の屋敷から金子を奪うための準備をさせていた。純次は、原家の事件情報収集をさせていた。 この時代の鉄平は、単純な正義感溢れた人では勿論なかった。盗賊時代を引きずっていたし、次平の復讐を止めさせるのは、金が必要だった。三之助は、裏の世界にも通じていた。城代の中山の金で、城代を始末するまで視野に入れていた。
藤一は既に、蔵の合い鍵を作り、蔵の中の調査まで済ましてあった。蔵の中には、合計六千両を超す金があるが、何故かその内二千両は、別個に隠されていた事を突き止めていた。掛け軸数点と一降りの刀剣も、別に保管してある事も突き止めていた。そして町はずれに屋敷を買い、小さな薬屋を、町中に作った。藤一はこの金は城代家老から蔵から持ち出していた。鉄平からの連絡がくるまで、既に2千両近くは、城代家老の蔵の中から消えていた。
鉄平から藤一に、改めて中山家の蔵から二千両と原家にあった言われる書画や刀剣を指定してあれば盗み出す事を命じる連絡がきたが、翌日にはすべて終わっていた。
情報収集をやらせている純次には、三崎屋への盗賊が入った事について更に詳しく調べると共に、その当時で城代家老周辺で金に困った者がいないか、今後の城代家老の動静についても更に調べるよう指令した。
鉄平は、この時知らなかったが、松江藩では、昔はよく、家臣は宝物については報告するが多く、戦国時代に敵方から密かに珍品を贈与されたとの疑いを避けるためであったが、今では行われる事がなくなっていた。左文字の名刀は秀吉から原家の先祖の武勲を愛でて賜ったもので、時の当主は、藩主に報告していた。掛け軸については、逗留していた絵師がお礼として残していったたものであったが、当時の当主がその絵師の逗留していた事と置いていった掛け軸については、当時の殿様に報告していた。城代家老の中山勘三郎は、原家から家宝を盗み出す時は、金子が奪われた事にしておきたいと思って仕組んだもので、以前から目を付けていた刀剣と掛け軸を盗ませたものであった。その後使途不明金の吟味の中で、古文書の中で、原家からの文書が出てきた。京や大坂の骨董屋から購入した形を取って、自分のものにしたいと考えていたが、有名な刀剣や掛け軸だけに、今は動かない方がいいと考え、蔵の中の別の箱の中に隠し、しまい込んでいた。
城代家老の屋敷では、家人が季節毎の掛け軸交換で、蔵の中に入り、微妙に変わっている事に気づいた。中山は用人には、二千両や原家の家宝については何も知らせていなかった。用人は蔵の中と宝物控えなどを調べたが、何も変わっていないとして、気のせいとして忘れていたが、数日後、中山勘三郎に「殿、私も歳を取りました。蔵の中が何か違うように感じられましたが、控えなどを見ても何も変わっておりません。」と話のついでに話した。中山勘三郎は、その場はやり過ごしたが、ある日気になって、江戸から戻っていた道之助と共に、蔵に入った。用人には、先祖の宝物について道之助に話しておくから誰も近ずくなといった。 二千両と原家の家宝が無くなっている事に気付いた。原家の家宝がなくなっている事に愕然となりながらも、これをうまく利用できないかと思った。道之助に原家の家宝についての捜索を再開できる理由を考えさせ、道之助と町奉行を取り込む手段について相談したが、二千両と原家の家宝を盗まれた事は公には出来なかった。
黒田藩の若君は、次平の薬が効いてきた。次平は若君の食事にも気を遣っていた。軽い散歩などもできるようになった。次平は若君ともに散歩して、軽い負荷をかけた後の心臓の状態などを詳しく調べた。今までの病歴や生誕後の状況などを見ても、次平が危惧した先天性心臓疾患の程度は軽いようでもあった。長崎からの書状なども参考にして、定期的な検診で、体質的改善を行う事とした。今で言う不整脈は見られなくなっていた。次平とは軽い剣術練習も出来るようになった。ただかなりの負荷がかかると、不整脈の兆候が現れていたが、薬を飲めば問題ないようであった。
黒田公は、次平を呼び、今までの経過を報告させた。会食という形を取り、人を退けての密談であった。
黒田公は次平の治療に謝意を述べて、「余から見ると若は随分と元気になった。その後診断の結果はどうなのか?」と聞いた。次平は、「若君の心は生まれつき心の形そのものに異常があると思われます。しかし危惧していたよりは軽いものと思われます。心の手術は、命がけであり、この程度ではお立場もあり、行う事が出来ません。軽い運動では問題ないようであります。定期的な検診は必要ですが、新しく検討した投薬を行う事で問題ないかとも思われます。そこで、田宮を置いて行きます。若様がいつまでも医者に掛かりきりの印象を与えては若君にも、世間にも良くありません。ご城下で医院と薬種問屋を作り、田宮はそれをやらせる形を取りたいと思います。薬種問屋も新たにご城下に作る手はずをとっています。いずれ若君様は、江戸に住まなければなりません。薬種問屋は、江戸に新たに作る手はずを取っておりますし、医院も作らせます。若様が江戸に居られる時は、田宮をそこに住まわせ、薬についても同じものを出せるようにします。田宮とは定期的に連絡を取ります。」と言った。黒田公は、暫く黙って聞いていた。「若を廃嫡して静かに暮らさせば、寿命は延びるのか?」と聞いた。次平は、言った。「いや若様は利発な方です。何もしないで静かにするだけが、若様にいいとは言えません。若様は、今は軽い運動はできます。その症状にあった適切な仕事をなさる方が、本当は良い事なのです。適切な仕事も実は治療の一つなのです。若様のお気持ちが大切です。若様の周りに利発で心優しい方をおつけ下さい。若様の意を介する方をおつけ下されれば、いいお殿様になられる事でしょう。田宮を呼んで宜しいでしょうか?田宮が呼ばれた。田宮は黙っていた。先生とは離れたくありません。若様のご容体はよく分かっていますので、仰せに従いますが、きっと戻ってくる事をお約束してください。と答えた。黒田公もそれは余も同様である。田宮 宜しく頼む。田宮の身分については、余に任せてくれ。悪いようにはしない。
福岡には、色々な処理が残っており、医院や薬種問屋も作るため、必要な人員もあり。ここで集団は半分程度に減った。それでも10人を超す集団で移動する事になった。
次平と鉄平は、江戸で作る医院と薬種問屋について、長崎と連絡を取り、数人を江戸に向かわせ、その他の人員については、江戸で手配するように指図した。田宮用だけの積もりだったので、医院も小さく、薬種問屋も源三腹心の伍平を向かわせた。原末の秘密は守りたかった。ところが、伍平は江戸の空気が合わなかった。そこで他の薬種問屋の手代だった忠助を引き抜いて、任せる事にした。田宮用の薬として、少量の薬を供給する筈が、江戸向けは、若干増えそうになった。伍平は薬草園や南蛮由来の薬を増産する事を約束した。
忠助には、長崎から送る薬種だけを売るように言って、伍平は長崎に戻った。田宮が来るまでに小売の実績も少し作りたかった忠助は、普通の薬種ではないと気付いた。懇意の金持ちしか診ない医者に少し、良く効く薬だと言って、長崎から仕入れた10倍の値段で売った。この方が有り難みがあると忠助は思っていた。ところが、直ぐにもっと呉れと言ってきた。凄く効いたとその医者は言った。忠助は独自の薬草園で栽培したものですからと適当に言って、何しろ数量が少ないものですからと言って、値段を倍にして、又少しだけ売った。そして現金で儲けを増やしていった。伍平は、薬の供給を増やそうとして必死になって、増産していった。忠助は持ち逃げしたり、売上や利益を誤魔化そうとも思ったが、まだまだ金になると思い、鉄平に店のものと得意先にも出資金を出させて、店を大きくしたいと言って、許可を貰い、自分の出資割合を増やしていった。そうして高値で売り続けた。田宮が黒田の若殿と共に江戸に出てくると知って、店を広くしたり、屋敷を買ったりして、購入先からお礼も貰った。鉄平に資本の増強を依頼した。そして伍平にも、薬は好調だから患者が待っていると増産を促した。薬の値段を増産できましたと云う理由で大幅に下げた。そして売上は急激に伸び、売り掛け金も伸びた。当初高い価格で購入していた医者や薬屋には、出資者の声をかけていた。従ってその人たちには実質的には割引の値段で売っているようになった。結果としては忠助は大金を手にする事が出来た。
まず先乗りが宿場で宿を決める。その後次平らの集団が到着する。九州を抜けると宿場で患者が待っている事は少なくなっていたが、先乗りが宿を決めると何人かは、宿屋には問い合わせがいくつかあり、次平らが到着すると、まず鉄平が奉行所や陣屋に報告する。比較的大きな寺に頼み、ひょっとすると使用させていただくかも知れないと喜捨し、広間を確保する事は行っていた。
下関では5日間逗留し、薬種問屋の番頭は2人で山と海岸を調べ、三之助は町中の調査をしていた。海岸の漁村で、一人の女の子が、一人で寝ていた。母は数年前に亡くなり、父は漁に行っていた。近くの民家で聞くと、ずっと具合が悪く寝ていると薬種問屋の番頭が聞き込んできた。手が空いていた次平が、行ってみる事にした。まず近くの網元に行き、治療の了解を取った。網元は、とても治療代が払える家ではない。女の子は、具合のいい時は、父の面倒をしている。このまま放っておいてもらいたい。次平と一緒にいっていた薬種問屋の番頭は、次平に言った。治療代名目で女の子をさらっていく人がいる事があるのかも知れない。次平は私は医師で、金目当で来たものではない。大分具合が悪いと聞いたので、 出来る事がないかと来たものである。網元は私も金払えないぞ、それでもいいなら勝手にしなさいといって奥に引っ込んでしまった。次平は近所の漁師でも立ち会って貰おうと思い、その少女の家に行った。父親が漁から帰ってきた所であった。次平はいった。私は医師で、お宅のお嬢さんが具合が悪いと聞いた。私で出来る事があればと思ってやってきた。診て貰うのは嬉しいが、とても治療代が払えないといった。ここでも治療代と言われた。治療代などどうでもいいと言って、次平は女の子は、診た。小児喘息か風邪がこじれたものか、それに栄養不良が重なっていた。次平は、持っていっていた薬を煎じるともに、薬の追加と京二に来るように薬種問屋の番頭に告げた。
少女は呼吸も楽になり、眠り始めた。次平は少女の楽になった表情をみて安堵している漁師と話をした。この男は網元と仲が悪く、網元の目を恐れる周囲も援助を躊躇し、又この男自身も援助を拒んできたようであった。話をしていると京二は鍋やいくつの料理を持ってやってきた。京二は次平にここで食べられますねと聞いた。この男の家は汚いが、広かった。次平はここで食事したい旨を男に告げ、その了解を無理矢理とりつけて食事の準備を京二はしていた。暫くすると夕餉の匂いが家の中に充満してきた。男が取ってきた魚も焼かれ出した。少女も目を覚ますと、目の前に膳が置かれていた。次平はこれが薬だ、ゆっくり食べなさいといった。京二は色々と書き込んでいたが、後始末を連れてきた男に指示して去っていった。
次平は男と酒を飲みながら、話をした。後かたづけした男も去り、少女の面倒を診いてる看護役と次平だけが残った。 男が眠ると次平は少女の面倒をして看護役に休むように合図した。少女の様子を暫く見ていたが、次平も床についた。
次平が朝起きると少女の熱はすっかり下がっていた。父親は朝早く漁に出かけたようで、いなかった。次平が少女の面倒を見ていると、京二は米、味噌、醤油などを持って、朝の食事の準備をしていた。やがて三之助は、数人の男女を連れてきて、台所や部屋の掃除を指図した。数羽の鶏と小屋も運んできた。帰ってた父親は一変した家の様子に驚いていたが、構わず京二は男が取ってきた魚を見て、金を掴ませ、助手に幾つかの指示をして、魚を持って去っていった。朝食を少女と父親と一緒に取った次平は、薬といくつかの注意を与えた。少女が安定している様子を見て、まだ数日はゆっくり寝ているようにといった。次平は帰ろうとすると、男は堪らず、治療代はいかほどになるでしょうか。今は無理でも、働いてお支払いします。次平は言った。又来ます。その時あの子が笑っていてくれれば、それが治療代です。
昼前に、京二は、気の短そうな男と三之助をつれてやってきた。京二は、少女のために昼食の準備を始めた。気の短そうな男は漁師に向かって、いくつかの魚の名前を上げ、取れないかと聞いた。そんなには取れないが、取れる事もあると答えた。取れた魚は最初に小崎亭の金治に持ってきてくれと言って、三之助と少し話をして去っていった。
この時小崎亭は下関でも指折りの料亭で、板前は金治と言って気は短いが腕のいい板前でった。三之助は、漁師に言った。取りあえず魚代は、月に2両とした。魚によっては後で色を付ける。それで辛抱してくれと言って2両渡した。
京二は、色々と少女に出す食事に注意をしていた。鶏の世話の仕方まで言っていった。
その日次平は奉行に呼ばれ、奥方の診察をした。そんな大病ではなかったが、色々な事から風邪をこじらせたようであった。次平の薬で大分熱が下がった。診察後奉行と話をしているとあの漁師の話となった。岡部屋時次郎という名前で、代々網元の家であったが、就任間もない奉行と衝突し、網元を今の網元に譲った。自分だけの漁場を確保する条件で譲り、一人だけで生きている男であった。娘はおゆきという。奉行は若い時の事を悔やんでいるようで、今の網元は、人間が狭く、面倒見がよくないとこぼしていた。次平は小崎亭との約束の話をした。自分だけの漁場を確保しているので、問題ないが、今の網元を呼んで漁場の確定をしておこうといった。長府のお城からの使者が到着して、次平の到着が遅れているがいつ着くのかと催促があった。尚病後の確認したい患者もあるが、数日後には出立致しますと返事した。
翌日 時次郎の家に行くとおゆきは起きあがっていた。しばらく寝ているように注意して診察したが、もうすっかり良くなっており、笑顔が心に残った。時次郎は治療代といって1両だしたが、次平と一緒についてきていた鉄平は、受け取らなかった。「次平先生は治療した。それは病で苦しんでいる人をそのままには出来ないからだ。今、治療代でそのお金を受け取ったら、またおゆきさんが熱をぶり返した時、どうするのか。お金はいつでもいい。貴方がお金に苦労しなくなったら、十分に貰います。施しじゃない。誰の世話にもならず生きて行く事は出来まい。人と人とは支え合って暮らしていくしかない。人に支えられたら、今度は人を支える事をしなくてはならない。明後日出立するので、明日の昼に魚を宿に届けてくれないか。それが貴方の今の治療代になる。」と言った。鉄平は、次平の復讐を止めさせるために、多大の費用をかけていた。次平に医師として、人を助けるのを優先させるための費用と考えたのか、それとも自然と出た言葉なのか、鉄平自身にも、まだ判っていなかった。それに朝網は小崎亭に届ける約束とも聞いていた。
時次郎は翌日 朝暗い内から漁に出た。大漁と言えよう。まず朝一番小崎亭に持っていった。金治は驚いたが、持っていった約半分を受け取った。これで十分といった。後は自由にしてくれといった。金治は次平との話を知っており、わざと形のいい鯛も返した。時次郎は、又漁に出るからと言ったが、金治はおゆきの面倒を見てやれ。今日はこれでよいと言った。
その後 時次郎は次平の宿を訪ね、次平に魚を渡した。次平は京二に渡した。 京二は一行の夕食を作ったが、何故か2人多い量を作った。次平は最後のおゆきの診察を行ったが、何故か料理人の助手が手提げの箱を持ってついていった。次平は2種類の薬を持っていき、小さい袋は熱が出た時だけの薬、もう一つは熱が治まっている時を飲むようにと言った。そして時次郎に貰った魚の礼を言って、病人用料理ではない料理人 京二の料理を見てやって欲しいといって膳をだした。器は返さなくていいから、必要なら使って欲しいといった。
時次郎とおゆきは、食べてこの夕食に驚いた。京二の料理は熱が出ていても食べられるほど、あっさりとした美味しいものであったが、この料理は本当に美味しかった。時次郎は取ってきた魚がこんなに美味しい料理になるのかと感動した。
時次郎は、翌日魚を届けた。金治に昨晩の京二の料理が美味しかったという話をしていた時に、金治は言った。「京二さんは、本当は医師で次平先生の元では料理人であっても、次平先生から離れれば医師になるかもしれないが、恐らく屈指の板前であろう。その人の料理を何日も食べるとは、恐らく最高の贅沢であろう。」時次郎は、次平は1両も受け取らなかったのは金額的に少ないからでしょうかと聞いたら、最後の腕を見てくれという料理だけで、二人1両なら、私なら喜んで払う。その料理について細かく質問していた。料亭の女将さんが来て金治にどうしたのと聞いたら、女将さんまでも繰り返し質問して時次郎を閉口させた。やがて金治は思いついた事があるようで、一人で思案し始めていた。
女将さんは、その料理を盛った器があると聞いて、膳とその器を見せて欲しいと云いだした。時次郎は持ってきますと言ったが、早く見たいといって、時次郎を引っ張るように家に急いだ。金治も付いてきた。 時次郎の家でまた料理の話を催促された。おゆきも起きて話に加わった。女将さんは、帰る間際に、この腕や陶器は大事に扱うようにといった。これは1人前 1両どころではない。5両出しても買えないだろうと言った。
時次郎は、そんな高価のものなら、いっそ売りますと言いたかったが、おゆきは大事そうに見つめているのを見て、声を殺した。女将さんは又言った。おゆきさんにとっては大切なものですしねと付け加えた。よくみると 湯飲み茶碗は、おゆきと時次郎とでは、形も焼きも違っていた。
お城からは、誰が急病という話ではなく、単にいつ到着するのかという催促であった。宿や治療場まで用意しているとの事である。下関の町並が遠くなって、武士の一軍が急いでこれらに寄ってきた。次平らの一行である事を確認すると、案内するために来た。この先の庄屋の家で城代家老の須坂がお待ちしている。須坂の話では防府の殿が思わしくなく、御殿医が診察しているが、心の病気かもしれないがよく分からない。心の病気では名高い次平がこれらに向かっていると聞いたらしい。次平は、須坂に幾つか質問した。殿はいつから体調がよくないのか、急に悪くなったのか等を聞いた。取りあえず様子をみるために、京二と源三をつれて、須坂とその脇侍ともに、馬に乗って、お城へ急いだ。
お城では、早速 殿様の寝室で診察する事とした。御殿医からの報告を聞き、診察する事とした。不整脈が強く、呼吸も乱れ、熱も高かった。強心剤と解熱剤及び睡眠薬等の薬を中心に投薬した。身体を安静に、症状の安静化に努めた。家老の須坂に面会を求め、京二と源三に、殿様の食事の調査と器について調査させたい旨を告げた。須坂は聞くや否やも一瞬にして青ざめて、「まさか、毒味役もいる事ですし」といった。次平は、「京二は元々医師です。お殿様の食事がお体に触っていたいたかもしれず、器は陶器の塗り薬等に問題がない事を確認したいだけです。」しかし源三が器の調査を始めると城中では静かな波紋が広がった。京二が殿様用の食事を作り始めると、近寄る人は少なかった。殿様の熱は下がり、一眠りすると食欲も少し出ていた。その時には京二は料理を作り上げていた。毒味役は、その膳を見て驚いた。町の飯屋にでも出てきそうな料理であった。「お粥、シジミ汁、小さな豆腐料理、焼き魚、香の物」とほうじ茶。毒味役は少しづつ食べるのであるが、お粥はもう一口食べたくなるのを押さえるのに苦労した。食べやすく、あっさりと美味しい。毒味後急に空腹感が出てきた。殿様は一眠りした後で、お粥は2杯食べた。焼き魚は骨がなかった。結局ほとんどたべてしまった。食べた後又眠たくなり、寝てしまった。
城中の別室で、須坂と次平も同じ料理を食べていた。シジミ汁は、大量のシジミを炊き、何回も濾過させ、薄く味噌で味付けしたものである。豆腐も実は京二が城中で作り上げて 野菜を湯通しさせ、細かく刻み、消化を促す薬草をのせ、豆腐の上にあんかけしたものである。焼き魚と見えたものは、鯛の大きな刺身を卵で2つ重ね、薄く味噌を載せ、それを炙り焦げ目らしく見せていた。 ふつうの粥に見えていたのは、鰹節で出汁を取り、そこに良く洗った白米を入れ、炊きあげたものに、蒸し鶏のほぐした身を加えていた。ほうじ茶は実は薬草入りのものであった。
須坂もほぼ食べて、なるほど京二殿の腕は大したものですね。次平殿それで殿の病はどうでしょうか。まさか誰かが毒を入れたいたと言う事はないのですね。次平はこういった。数日後お体が安静になってから、ゆっくり診察するつもりです。毒についてはほとんど問題はないようですが、まだよくわかりません。まだ詳しく診察できていませんので、これ以上は申し上げられません。
翌日 殿様はかなり元気になっておられ、直ぐに萩に出かけたいと言われた。次平は言った。「薬はどんな薬でも一時的な押さえに過ぎません。殿のお体は至る所で、心が臓器が悲鳴をあげています。単に一時的に薬で緩和したものに過ぎません。なぜ悲鳴をあげたのか調べなくてはなくなりません。当座しのぎは決して問題解決ではありません。私の仲間の医師で料理に詳しい京二が殿様の身体を中から治す食事を考えております。食は薬です。」殿様はしばし黙って、「余の身体は任せる。夕べの膳も今日の朝の膳も美味しかったと伝えてくれ。なぜ悲鳴をあげたのかその理由を調べるのが重要か。それはそれかもしれない。次平済まないが、須坂と話をしておきたい。須坂を呼んで欲しい。話をする事は問題あるまい。」次平は、こういった。「2時間を限度にお願いします。殿の身体が良くなればこの時間は増えます。無理をすると、綻びがでます。」「分かった。そちは名医ではなく千里眼と言えるかもしれない」と笑った。
殿様と須坂との話は、色々な人を呼びながら、結局3時間を超えた。次平に怒られるので、今日はここまでにしておこうとの殿の声で会議は終わった。次平は呼ばれ、診察した。「心と肝が弱っているようですね。元々お強くないのに無理が重なったと思われます。お酒は当分いけません。お薬は代えます。それをお飲み下さい。」と言った。「なるほどそちは前もって考えていた訳か、余は釈迦の手の孫悟空であったのか。」
薬と京二の食事で殿様は回復の兆しが見えてきたので、宿に帰れるようになった。京二も城の賄い方に食事について指示できるようになってきた。
更に数日間過ぎると、城下での治療も目途が見えてきた。毛利道隆は萩に行かなければならないようであった。次平は我々の仲間で諸国の事情に詳しい者がいます。つれづれの参考になれば話をさせますといって三之助を紹介した。道隆は三之助と暫く話をしていたが、家老の須坂も呼び色々な話をしていた。道隆は三之助に「情報は、どこから入手するのか、次平や鉄平から得るのか」と聞いた。三之助は「私からは情報は参考までに差し上げていますが、次平先生や鉄平旦那からは話を聞く事はありませんし、こちらから聞く事もありません。聞いてはいけない事ですし、人に話してもいけないものです。人に話して行けない情報は知っても仕方がないものです。私は町の噂や瓦版、各地にいる私の仲間から得ています。今お話したのは、各地で囁かれている事を纏めたものです。本当は機密と呼ぶものではありません。でも案外、人はこのような事で左右されやすいものです。」「三之助、お主は武家の出だな。藩名を聞こうとは思わないが、長州の情報力はどう思う。」「長州様は、いい面でも悪い面でも人の噂に鈍感です。多くの人は真実を見る事は出来にくいものですし、表面的に見たものでしか判断できません。」
長府は長州の支藩で、殿様は長州の家老格でもあった。そして道隆は長州の重臣で、幕府とも何かと折衝の機会が多かった。「なるほど そういう見方もあるかもしれない。次平は名医であるが、医師と人入れ屋とは関連する事もないと思われる。次平はなぜお主を連れているのか?」「先生のお気持ちは分かりませんが、私はこう思っています。病気になれば、働く事が出来ないか、そうでなくても働く時間や働き方に制限ができます。折角次平先生が治療しても、劣悪の環境で働けば、又病気になってしまいます。そんな事をさせないように、働き方や職の斡旋をしています。それに案外貴重な経験を持った人もいて、適切な職も十分あるし、色々な働き方が可能な事も多いものなのです。お金の話で恐縮ですか、次平先生はお金に恬淡ですが、お金持ちの旦那さんからかなり頂いております。貧しい方からお金を受け取ろうとなさいません。しかしいつも貧しいままでいいとは思えませんし、お金を払わないと遠慮して、病状をちゃんと言ってくれない事もあります。働いてお金が出来たら頂きますので、施しではないと言う事は必要ではないかと思っています。その人に適切な働き方を相談させて頂くは、一緒の治療であると思っております。それには、働き方などの色々な情報も必要なのです。」道隆は黙ってしまった。道隆は、次平と相談して、一緒に萩にいくように準備を始めた。
鉄平にも連絡が入っていた。城代家老の中山勘三郎は、松江公の代替わりで事件が発覚する事を恐れて、三崎屋を処分した事はほぽ確実であった。盗賊を雇い、屋敷に踏み込む、皆殺しにして、文書が残る事を恐れて火を付け、その後、口封じのため、盗賊を殺したものである。従って文書等は残っていないようであった。
鉄平は純次に対して、中山親子が書いた書簡を入手して、自白書と遺書の準備を進めさせた。三崎屋を殺した武士たちについては、更にくわしく調査させた。人を殺して金を得られればまた繰り返す事もからである。
一方 藤一は江戸で中程度の料理屋を買い取り、盗み出した金額の三分の一ほどは江戸に持ち出していた。藤一が購入した屋敷に接している屋敷が売りに出た時に、鉄平名義で購入して、藤一の屋敷も鉄平が購入する形で譲渡が進んでいた。鉄平は藤一に半分程度は、自由にしていいと言って、屋敷の購入名目で三百両の為替を送っていた。千三百両程度の小判を置いた屋敷と隣接する屋敷を三百両で、鉄平が購入した事になった。
鉄平の指図を受けた藤一は、指示通りに、順三という名前の商人に、居抜きの形で屋敷を譲り、藤一は江戸へ去った。順三とは純次の事であったが、藤一は知らなかった。
小崎屋を殺害した武士2人が酒場で暴れ、居合わせた商人を斬った。中山の息子道之助が、無礼討ちで片づけようと強引に進めたのが、裏目に出た。斬られた商人の家族の怒りを買い、藩目付に訴えた。松江公が国にいた事もあって、如何に城代であっても、変に口を挟む事ができなくなっていた。それに次平が帰参する事が噂になり、松江公も原親子の事件を思い出していた。商人の家族が怒っていた時に、藩目付への訴える事を教えたのは実は純次で、密かに原家の家宝は、中山の蔵に分かり難いように戻しておいた。
松江公の命令を受けた目付は、武士2人に、小崎屋の件と原殺害についても尋ねた。純次は匿名で訴えていた。商人殺害だけの問題だけで動いたものではなかった。この二人の武士に対しては、絡め手も含めて、家の跡継ぎや自分の命などについての追求した。二人は一人ずつ調べられた。自分だけに罪が被される事を危惧した一人が自白すれば、更にもう一人ももっと克明に自白して、すべては判明してしまった。原家の家宝は既に盗まれたと信じていた中山は、事態の急転を感じていた中山は、わざわざ奉行を呼び、自分の蔵に案内した。奉行もそのまでと否定していたが、中山の意図も察知して、恩を売るつもりで、中山の蔵を見た。原家の家宝を見た奉行の変わり身は早かった。もう中山に付いていても不利と悟った。中山は焦って動き、証拠を見せ、味方も失った。全貌が明らかになると松江公はかえって困ってしまった。中山家は旧家で、大名格である。事が明らかになると、藩の名誉が丸つぶれになり、幕府への報告や大目付の介入を招く。別の些細な件で、中山親子が自分で切腹する事にして、奉行は見つかったと言って原家へに家宝を返却した。中山家の親戚は後を継ぎ、三千両を藩へ差し出して、中山家を守る事で落着していた。しかも分家設置名目での中山家の家禄は減ったが、親戚に取っては得になる話でもあった。
武士2人は切腹させても良かったが、お叱りの上、商人の家族への償いもさせる事で微禄を維持していた。事が明らかになると困る中山家は暫く謹慎していた。中山親子の切腹は直ぐに行われた。原家は筆頭格の家老となった。
鉄平と三之助は喜んだ。三之助は殺し屋ルートにも接触していたが、依頼すると後が厄介になると案じていた。鉄平は、三之助にお前にも借りができたなと言っていた。三之助は、殺し屋ルートには詫び料を払った。
萩の城下に着いた次平は、道隆に連れられて、毛利大膳太夫元親にあった。「道隆 身体は良くなったか? 一時かなり悪いと聞いて心配していたが、顔色はいいようであるが。大事にしてくれよ。最近色々と心配りしているようで、病気をすると思慮深くなれるとは知らなかったと家老たちは言っておるぞ。連れてきたのは、名医の噂が高い次平か 表をあげよ」
「私はとても名医ではございません。ただ優れた仲間に恵まれたいるだけで御座います。」と次平はいった。道隆は言葉を繋いだ「次平には治療だけでなく、食事の世話まで診て貰い、その上色々な事を教わりました。食も薬と思い知られました。そうだ 次平、京二に殿との会食の準備をさせてくれまいか。殿 次平の配下で京二と申す医師が、料理が巧みでして、体に合った食事を作ります。毒味役が思わず追加を頼みそうとなったとの由であります。」 元親も最近気分がすぐれない事もあり食も進んでいなかったので、「余も次平に身体を診て貰おい、京二とやらの食事を貰おう。 道隆その方は合議衆との話もあろう。 次平 さっさく診て貰おう。」 長州では殿様自身が合議に加わる事はほとんどなかった。 次平が診た所、元親も胃の働きが弱く、他の臓器も弱っていた。かなりの心労があるように思われた。「殿様は、とくに御身体が悪いと言うことは御座いませんが、色々とお疲れがたまっておられ、心や臓器なども疲れているようで御座います。今日は薬を差し上げますので、ゆっくりお休みになってください。京二には準備させておきます。」
元親は、手を叩いた。「真之介 明日は道隆と会食する。賄い方には、京二とやらの手伝いをするように手配いたせ。 次平楽しみにしているぞ。」 次平は薬を調合して殿の近侍に差し上げて、宿に下がり、京二に連絡した。京二は驚いた風であったが、城の賄い方と相談するための城に向かい、三之助とともに、市場などを見て歩いた。
翌日 早くから京二は市場で色々な買い物をして、手伝いの助手を2人つれてお城に上がった。次平は城下での治療場で診療し、午後 城に上がった。道隆と会った次平は「殿様急に無理をされないように。休憩は十分お取りになって下さい。」と言った。次平は呼ばれた。数人の会食と思っていたが、十人を超える人が座っていた。
元親は表情がすっきりして顔つきで座っていた。「次平 大分今日は気分がよい。そちの薬は良く効く。道隆とだけ会食するつもりであったが、ご相伴したいと言うものが多くて思いがけず人数が増えた。皆の者 これの夕餉は余と道隆の薬である。その事を念頭においてくれ。」やがて 膳がはこばれて来た。京二は、手間をかけて、一見質素に見える料理を作る事が多いのであったが、今日の膳はかなり飾りも多く、海の幸を使用していた。ご飯も粥と白飯とを両方用意していた。「殿 これはすごい薬ですね」と恰幅のある年輩の武士が言った。食事は美味しく、元親は粥も2杯も食べた。一通り食事が終わると元親と道隆以外は頭を下げて、出ていってしまった。道隆は言った。「今のは毛利の長老格と合議衆のなど長州のうるさ方だ。京二の料理をあまり誉すぎたので、真偽を確かめたいと押し掛けてきた。これが長州だ。」 元親は言った。「長州は藩主といっても皆の意見を聞かねばならない。余が京二を御殿医の筆頭格で、賄い方の頭取として合議衆に加え、三之助を藩目付として同じく合議衆に加えたいと言ったので、確認したいと思ったのであろう。次平、京二と三之助を長州にくれまいか」次平は吃驚した。道隆が京二を気に入っていた事は知っていたが、三之助については話がなかった。「本人にも確かめなければなりませんし、三之助は元いた藩との問題もあります。」道隆はこう言った「それは三之助にも確認した。三之助は諫言し、殿様が怒り、職を取り上げたようである。三之助は遠縁の子を跡継ぎとして家を継がせている。いわば隠居の身であるし、まあ悪いようにはしない。三之助は民の暮らしを豊かにする事に向いているとは思えた。京二はもはや単なる医師でもないし、まして単なる料理人でもない。そちのやり方とは違うが、多くの民の健康を救う事ができる男だと思う。長州は色々合議してきめる藩である。京二や三之助のような考え方をできる者がいない。活躍できると思うし、わしが手助けする。」次平は二人の身の上を考えていたが、元親のようには考えていなかった。二人には私が説得してみようと思い、「私から話してみます。お願い申し上げます。」 宿に帰り、鉄平にも話をして、二人に話をした。特に民の健康を守り、民の暮らしを豊かにするために仕官しないかと言われた事には二人とも感動しているようである。鉄平はいった。「萩にも薬種問屋を作り、ここを拠点に次平先生とは連絡が取れるようにしたい。決してお二人を追い出すわけではない。民の健康や暮らしを豊かにするお仕事はお二人には向いていると思う。苦労はあると思うが頑張ってみられたら、どうでしょうか?」 京二と三之助は頭を下げて「先生にお任せします」と言った。 京二と三之助の仕事は特殊であったため、助手は大慌てであったが松江まではもう直ぐであった。
結局 道隆とも話をして、萩に医師2人の医院と源三を中心とした薬種問屋を作り、人入れ屋の手代格の道陰は、人入れ屋を買い取り、京二の弟子ともいえる三郎は、萩の料理屋を買い入れる事になった。道隆も応援する事を約束した。
残る人員は、次平と秘書とも言える医師中山、そして鉄平と連絡役と荷物持ちの5人で萩を出立する事になった。
中山親子の切腹から半月後ほど経って、次平らは松江に着いた。松江公は喜び、次平は松江藩御殿医となった。鉄平の半年を超える作戦は、終了した。三之助は、三之助自身の将来も考えて、長州藩においてきた。源三も、妻子を萩に呼び寄せた。ここなら静かに暮らせるだろうと鉄平も源三も思っていた。
源三は、西洋薬の調達と、薬草園の拡充で大変だった。やがては自分達の薬草園で近い薬草を栽培していかないといけない。思いがけず福岡や長州で藩の庇護も受ける事になった。
まだ次平の医院では鉄平の薬種問屋の店が必要だった。福岡や長州では思いがけず、藩の庇護も得た福岡や萩の各店でも、長崎とは別に原末を作っていく事が出来た。
鉄平は、前もって購入していた屋敷で、純次と話をしていた。事の詳細を聞いた。早苗の件も中山による原殺害も、結局有耶無耶になっていた。鉄平はお前も順三となり、薬種問屋をやってくれと頼み、手に入れる事になった。跡継ぎがなく、資金繰りに苦労している店を探して、通常より高い金額を出して、居抜きで購入する事になった。薬種問屋は長崎、福岡、江戸、萩と広がっており、薬そのものは、良質な薬草が安価で手に入れる事ができる筈である。薬草園も広がっているようである。もっとも薬草園は源三が手配し、長崎にいる伍平たち少数のものが管理していた。
鉄平は薬種問屋を運営し、順三が大番頭となり、以前からの番頭以下は元通りで、実際の仕事はそのままの体制であったが、良質な薬草が以前よりも相当安い金額で入手できる。順三は町での情報収集に当たって、新しい薬草などを調べて、時折指示を出すだけで、問屋での会合なども順三がやっていた、時折帳簿上の間違いを指摘したり、質問する程度であった。鉄平には、いつも飛脚が来たり、手紙を書いたりしていて、月に数回順三から報告を受けるだけであった。
鉄平は、ほとんど店の運営には関与しなかった。しかし、店は繁盛した。支払いが滞っていた薬屋とか医者に薬を届けなかった事があり、貧しい人が客の店とか貧しい人を多く診ている医者であった。なんとかお願いしますと店に懇願にきた。鉄平は、奥にその人を通して話を聞いていた。早速必要な量を渡した。番頭に、薬を届けないという判断は私か順三がしますと静かにいった。店を閉めると番頭は呼ばれた。順三と鉄平が座っていた。まず順三は「私はもう少し店にいる事にします。店の中も知らなかった。」鉄平は安価で良質な薬を提供するためにこの商売をしている。その事を貴方もよく知って欲しい。単に支払いが止まっただけで判断するのではなく、内容をよく見て考えるように。番頭さんに来て貰ったのは、あの薬屋さんやお医者さんについて、もっと知りたいからです。と言った。番頭は今までの何度も支払いが遅れたりしている事や客筋が貧しく、商売として見込みがない事を述べた。鉄平は「なんで貧しいのですか」と聞いた。
番頭「客筋は、日雇い仕事の人が多く、雨が降ると仕事がなくなり、食べ物だけでも大変で、薬まで金が回らないからです。」、
鉄平「支払いが滞っている薬屋と医者は、私預かりにして処理してください。金額ではいかほどになります。数日中に、お得意様のお名前と金額を私に出してください。」
その晩、鉄平は三之助に相談する書簡を書くとともに、長崎に人入れ屋の人員の状況について報告するように書簡を書き、翌日飛脚を頼み、前日にやってきた薬屋や医者を訪問した。溜まっている薬代の催促に勘違いされたが、こんな状況をなんとかしたいと言うと、戸惑いながらも少しうけあけて話してくれた。鉄平は「薬代については気にしないで、注文してください。もっと色々な薬もありますので、私か順三に相談してください。」と言った。帰ってきて順三に相談した。ここらの人入れ屋の株が手に入らないだろうか調べてほしい。番頭が前日頼んだ得意先名と金額を書いたものを持ってきた。その書かれたものを見て鉄平は、自分の文庫からその金額を番頭に渡した。店としては、お支払いを受けたと言う事にしてください。従って当然催促は不要です。
鉄平は1軒つづ薬屋とか医者を訪問した。話を聞きながら、棒引きにしたり、新たに金を出したりしていった。薬はどんどん注文してくださいとの言う事も忘れなかった。
鉄平は次平の帰郷を遅らす方便として、困っている病人を次平に治療させる事にしていただけの積もりであったが、もう目的が達成しても、同じ事をしている自分に吃驚していたが、やはり見過ごしには出来ない鉄平であった。
次平は御殿医としては、順調だったが、医院を開設する事については松江公は了承したが、誰でも診察する事にはあまり賛成では無かった。誰かの紹介による患者とか、特に診断する事が難しい患者に限定して、研究を重視して、高度の医術を追求して欲しい。お城の仕事も殿様とか藩に影響を与える人に限定しているようで、他の御殿医たちも誰でも診察できず、それぞれ松江公の指定する人たちだけを診ているようであった。次平は、総括だけをして欲しいといわれた。松江公の気持ちは有り難かったが、「私は医師であり、病んでいる人がだれであり、診るのが当然ではないか」との思いは残った。
それでも殿様の意向を無視するわけには行かず、それに元々学究肌で、色々研究を進めていた。それになにより、何しろ診察があまりない。中山でさえ診察する機会が少ない。研究だけで実践がないのも医師としては不満である。難しい病気でなければ、鉄平の医院へ行く事も憚れた。何しろ奉行でも風邪を引いて次平に診察を求めて、家老から「君も偉くなったね。」と言われた噂も流れた程である。
殿様から次平に診て貰えと言われない限り、家老でも次平に診察を求めなかった。鉄平も時折訪ねてきたが、次平の愚痴を聞いている事が多く、新しい薬などについては話をしたが、貧しい人への医療や生活の基盤を固めるための方策については相談する事も憚れた。鉄平は、今は次平に頼めないと思った。貧しい人を診察し、薬代も払えなくなった医師たちを集めて、資本を投入して新しい医院を作り、順三に新しい薬や長崎での実践例などを紹介させるように指示した。ただ次平は話を知り、中山に密かに、この医院での医療を手伝わせた。いいまで貧しい人を中心としていた医師たちは、高価な薬を使う事を躊躇しており、新しい治療までには手が回らなかっただけで、志は高かった。名医として名高い次平の助言も、中山から得られ、最新の医術に基づく長崎の治療例も知り、治療の質も上がった。又 次平の助言も得られる医院として、密かに知られるようになり、武家や裕福な町人たちも来るようになり、医院としての経営も楽になっていた。
順三は人入れ屋の株は入手できそうだといった。三之助からは色々な助言が届いた。長崎の店からは三之助などが抜けて、猫の手も借りたい程で、難しく、鉄平旦那に来て欲しい程であるが、それでも鉄平旦那と働きたいと言う者は多い。色々と人も育ています。福岡か長崎から、手代の一人を派遣しますと言ってきた。
京二からは、三之助から鉄平さんの話を聞いた。「私は動けないが、三郎の店もある程度安定してきた。気の利いた男が数人いるが、将来衝突しそうな気がしている。三郎からも相談を受けている。料理屋の店を見付けて欲しい。派遣するように三郎に話をしている。料理屋があれば、炊き出しなどもやり安いではないか。」と言ってきた。
鉄平は、順三に料理屋についても買える店を探して欲しいと伝えた。居抜きで購入した口入れ屋は、三之助の助言は参考になった。順三が雇っていたものたちが仕事を探していると相談した事もあって、人入れ屋も拡充できた。貧しい地域についても、その人たちの相談に乗ってやれる事ができた。少しつづ仕事の量も増えてきた。仕事の開発が必要であるという思いは強くなってきた。
鉄平の連絡役だった幸三は、鉄平から金を借り、飛脚屋を作りだしていた。全国に広がった鉄平の作った薬種問屋、人入れ屋、医院が置かれた、長崎、福岡、萩、江戸に飛脚屋を作ったり、飛脚屋を買い取り始めた。専用便と秘密保持が目的だった。
藤一からも手紙は来た。「中山家老の件はどうなりましたか? 私はもうとっくに足を洗い、光次と名前を変えています。顔は知られていませんが、開かずの藤一などと変に名前は知られていますので、名前は変えました。もう藤一は死にました。やっている料理屋は順調ですが、私がする事はあんまりなく、暇で小さな鍵前屋をやっていますが、どうも良い錠前などを作るのは、江戸の人は向かないようです。手先の器用な人は松江にいますか?」と言った手紙が来た。「中山の件は、決着した。中山家からの盗みは無かった事になった。錠前だけでなく、細かい仕掛けの細工物などを考えて欲しい。それを松江で作りたい」としたためた飛脚を出した。
次平は、早苗の復讐も相手が死んではできず、早苗の墓に参り、早苗には報告した。診察機会が減った事は不満であったが、長崎、福岡の田宮や萩の京二から相談の手紙を来て、それについて考えたり、長崎での情報が来たり、江戸との連絡も取ったり、されたりと学究の生活も中山と共にそれなりに過ごしていった。次平は医師は病人を直してこそ、医師であると思いが強かった。病気の事や文献、症例だけを知っている医師にはなりたくなかった。病気は治ったけど、病人は亡くなったというような事は避けたいと思っていた。しかし時々動けなくなり、深く研究さぜるを得なくなる事がこれからも時々あった。
田宮は黒田公の若君に同伴して江戸に行き、江戸では、治部医院にも顔を出した。御殿医ではあったが、黒田公は束縛は緩やかで、若君の体調や殿様の健康について管理していけば、後の診察は自由であった。それに江戸での薬種問屋は一番大きくなり、鉄平の店でありながら、鉄平を知っているものは少なかった。田宮は時々遊びに言って、薬の話を聞いたり、聞かせられていた。
田宮は鉄平に手紙を出した。「次平先生も退屈しているようで、鉄平さんは江戸の店には一度来た事がないのもおかしい。次平先生を誘って江戸にきませんか?」
松江公は、次平が松江を離れるのを嫌ったが、鉄平が自分の店から工作して、幕府御殿医 である良庵から松江公の周辺に、心の病気について膝を交えて歓談したい、他の研究者も紹介したい、松江藩に名医がいる事を、江戸の人に知らせれば、松江藩にも名誉ではないかという手紙を送らせていた。松江公も次平の江戸訪問を認めた。ただ期間は3カ月として期限を切られた。
鉄平は人入れ屋を通して、貧しい地域での職斡旋や内職等の斡旋も行っていた。人入れ屋で職が無い時の資金援助や安価な給食、定期的な炊き出しなどをやって、それなりに安定してきた。藤一いや光次も江戸で必要な手先の細かい錠前や細かい機械などを開発し、鉄平は鍛冶屋のような工作所を作り、内職や新しい職の開発を進めていた。三之助も江戸は大きな町で、そこでの見聞は役立つと言う手紙をよこしてきた。
次平、鉄平とはそれぞれ、秘書役の共を含め、荷物持ちを加え、5人で江戸に向かった。松江公の手前もあり、宿場での寺を借りた大がかりな治療はできなかった。松江から山陰道で京に向かい、江戸に向かう道筋で江戸に向かった。幸二が日程調整と宿屋の手配をしてくれた。連絡先が分かり易いように、幸二自身のためでもあった。旅の日程は、長崎、福岡、萩、江戸の医院と鉄平の薬種問屋には知らされていた。
時折、患者たちが、宿に次平を訪ねてきたし、次平や中山は診察機会が減っている事の反動から丁寧に応対して遅れがちであったものの、大きな遅れはなく、次平らの一行は、京に入った。幸三が指定した宿は大きな宿であった。次平を訪ねて、若い女が待っていると言われ、次平は会った。どこか見かけた風貌のある面影であった。おゆきであった。あれから3年近くが過ぎておゆきは17才になっていた。時次郎は、色々な情けを知り、食って掛かるような態度がすっかり影を潜め、色々な目配りが出来るようになり、再び網元に復帰し、下関の各料亭に魚を納めて、順調にいっている。三之助は長州内の視察に訪れた時に、おゆきは、三之助から次平らの旅を聞き、時次郎を説得して、急いできたのだという。時次郎が最後に「結局 お前はさらわれた。先生は心をさらっていった。」と言った事は言わなかった。
その晩には、三之助から手紙が来ていた。時次郎からの手紙も同封されていた。「長州での京二と三之助の状況が詳しく説明されており、京二は結局従来の御殿医では治まらず、長州一体の保健や栄養などに目配りをするようになり、活躍している。最後に時次郎とおゆきの事が触れていた。時次郎は今や 大網元になっており、かなりの漁場を差配している。そして嬉しい事に単に網元だけではなく付近一帯の民生にも尽力してもらっている。おゆきは身体はすっかり良くなったが最近ぼんやりする事が多くなり、先生の旅について詳しく聞いていた。」、同封する時次郎の手紙には、「おゆきだけでなく、私も先生に治療してもらった。生まれ変わったつもりで、人を支えられる存在になっていきたい。ただおゆきは身体はすっかり良くなったが、心は先生が持っていってしまった。ここにおいておくと、おゆきは心のない人形になってしまう。おゆきに心を返してください。おゆきを先生の近くにおいてやって欲しい。」と書かれていた。
その日から、次平の世話をおゆきが細々と面倒をみる事になった。おゆきに邪魔者扱いされて、鉄平らは京を散策する事が多かった。そこで鉄平は、散策中に見付けた反物、焼き物、薬らを江戸、福岡、萩、長崎の各店に送る事とした。それぞれ人入れ屋とも相談して今後の参考にするようにとの手紙を別に出した。宿に帰ると大坂の両替商の河内屋が鉄平に会いに来ていた。「私はさる大店に勤めておりました。今は名前を申し上げられませんが、その方も鉄平さんにお会いしたいと言っております。取り合えず、大坂に薬種問屋と物産問屋をもたれませんか? 萩に居られる源三さんにも相談したのですが、鉄平旦那とよく話をしてみると言われています。」、鉄平は今朝 源三からの手紙が届いているのを、思い出した。源三からの手紙には、「河内屋の口上に加え、順三や三之助との相談した結果が書かれていた。河内屋の後ろに、鴻池がいる事と鴻池の隠居が、鴻池の幹部会で、鉄平を誉め、人を豊かにするのが、本当の商売だと誉めていた、今鴻池の当主は江戸に向かっており、江戸に半年程度滞在する予定である事などが書かれていた。但し鴻池もどのまで信用していいのか、大坂に店を出すのはいいが、今我々が無理せずに出せる金額は、江戸の店の内情は詳しく分からないので、江戸の店が言ってきた千両を半分として、二千両程度です。その範囲で話を進める事が必要です。萩の店は安定しており、気の利いたものを育っており、私が大坂へ行く事は可能です。鉄平旦那の判断に従います」との手紙と色々な情報や試算結果などが付けられていた。 鉄平は待たせていた河内屋に言った。大坂に店を出したいとは、前から思っていました。但し、手前どもは、各地で店を立ち上げ、まだしっかり安定しているとは言い難い。いきなり大きな店はつくる事は難しい。」 河内屋は言った。「萩の源三さんからのお手紙を読めば、手前が誰の意向で動いているのかもご承知でしょう。資金的なご心配は不要です。手前どもは五千両まで出せます。鉄平さんには、大坂である方に合って頂きたい。細かい話は、手前と源三さんで詰めて行きたい。多分源三さんは大坂に出てこられるのでしょう。」鉄平はさすがに鴻池、油断ならないと思ったが、変に駆け引きしても適う相手ではないと思い、「手前は江戸に向かう次平先生のお供でついてきています。もうすぐ京を出立する事に思います。大坂往復するまでの時間はないかと思います。」河内屋は、笑いながら言った。「次平先生の事は手前も聞いております。禁裏からの使者が今日、明日にも到着されると思います。次平先生は、心の病では有名なお方です。さる尊きお方は、心の病で苦しんで居られます。どうして京を素通りできるでしょうか。手前はもう一度参ります。」
禁裏からの使者が到着する前に、松江公からの使者が来て禁裏に参内するように言って来た。禁裏は次平らの日程を正確に把握しており、松江公に次平が禁裏に参内する事と暫くの滞在を命じるように求めてきた。松江公としては否応もなく、文書を出さざるを得なかった。禁裏からは、明日参内するようにと次平は禁裏に呼ばれた。さる尊きお方は帝の事であった。禁裏での診察は困難を極めた。何しろ身体に触れないで診察するのであるから。次平は、今使用している薬や症状などについて説明を受けた。その後、帝は、次平を呼んで、お人払いをされた。症状について申してみよといわれ、恐れ多い事ではありますが、直接ご尊顔とお脈を診たいと言った。帝は特に許した。若干のむくみや不整脈が強かった。これは大変な事になった。禁裏からは宿に帰る事は禁止され、薬もできれば、禁裏内にあるものを使うように要請されたが、禁裏にある薬では無理といって、薬については持ち込むが許された。中山に薬を指示して投薬した。禁裏では南蛮由来の薬をそのまま使用する事は難しいので、漢方処方に混ぜ込み、当時の日本では入手が難しいと言われる高貴薬との混同も行った。当座の薬が無くなりそうだったので、薬の手配は禁裏御用として鉄平の各店に対して早急に行われた。鉄平は急遽京に出店を作り、源三配下の人を呼び寄せた。数日間、薬を複雑に交換して、5日後には、帝もそうとう回復されていた。次平はようやく宿に帰れる事になったが、当分京を離れる事は出来なかった。
鉄平は、鴻池の隠居との会談を済ませた。鴻池の隠居は非常に好意的であったが、大規模な薬種問屋や物産問屋を作る事に慎重な姿勢を取る鉄平の意見には懐疑的であった。「鉄平さんらの仕事は早急に必要な事であり、京にも出店が必要となるだろう。資金回収や経営についての横やりなどについては、私が許さない。人についても河内屋に準備させる。鴻池を信用して欲しい。」と言った。鉄平は「私どもは、せいぜい2千両程度しか用意できません。それ以上出せば各地の店に影響が出ます。」松江の屋敷に残る約千両と江戸からの提示してきた半分の5百両は、予備の金としておいた。鴻池の隠居は当座の資金繰り等を含めても、五千両あれば、十分やっていけるだろう。鴻池の隠居は言葉を続けた「河内屋と源三さんと早急に話をさせよう。取りあえず鉄平さんと鴻池で、2千両つづ出して、大坂に薬種問屋と物産問屋の店を作る事にしよう。5年間以上は資金回収はしないし、利益配分も求めない。運転資金については鴻池が用意する。只、金の流れは、すべてとは言わないが、少なくとも半分以上、鴻池を通して欲しい。それでいいですね。」鉄平は頭を下げて「お願いします。しかし私は小さな鍛冶屋程度の工作場を松江に作り、江戸や大坂相手に商売できないかとも考えてもいます。そこで作った物を物産問屋に置きたいとも考えいます。そんな道楽仕事も物産問屋でやっていきたいと思いますがそれでも宜しいでしょうか」。鴻池の隠居は言った。「面白いではないですか、各地で得意とするものを作り、大坂、京、江戸で売る。それに私は運営については、すべて貴方にお任せします。と言った筈です。二言はない。これで決まった。具体的な話は、河内屋と源三さんで進めさせよう。源三さんはもう京に到着された頃ですね。鉄平さんも江戸にゆかれる予定と伺いました。鴻池の当主と江戸で会ってください。連絡させるように取りはからいます。」
京に到着した源三は、数日間色々と準備していた。驚いた事に三之助も京に来ていた。京での不穏な動きの報告があり、三之助がその真偽を確かめるために来ていた。源三と鉄平は話をした。今出せる無理のない金額というだけで各店に聞いたので、源三のいる萩の店以外は鉄平が慈善事業でも始めるのかと思い、過小に申告していたようである。大坂に店を出すと聞いて、各店は金額を上げてきた。店間の資金移動は結構行っていたが、得た利益の配分をしている。利益配分が見込める事であればという事であげたものである。鴻池に頼らずともやっていけそうであった。鴻池の隠居との約束は約束であり、鴻池との協力関係は維持したいので、総額3千両になるように各店間の出資金を調整させ、残った金額は京都に小さな薬種問屋を作り、薬草園の拡充に使う事で、各店を説得させる。大坂の料理屋や口入屋などの売り物も別個に探す事になった。飛脚屋は既に、幸三が京と大坂に出店を出す事になっていた。源三の計画も聞いて、鉄平は了解して、源三に任せる事になった。
2カ月を超える治療と投薬の成果もあって、帝の回復は進んだ。京二に依頼していた料理の処方などなついても賄い方に注意を与えた。今日は禁裏の医師団の立ち会いで、帝に対して病状の説明と今後のご注意を行う日であった。帝は気分も回復されたせいか、和やかな表情であった。医師団は面目を逸した事もあって、険しい表情であった。薬についてもあれがそんなに効くのかと言った質問も出た。次平は私の調合している薬草は、鉄平の所で薬草園も含めて管理していると説明した。帝は、細かい質問はどうでもよかった。その薬は今後も次平から提供されるものと信じておられたが、「次平その方は江戸へ行くと聞いたが、薬等の問題はどうするのかと質問された。」次平は、京には鉄平の出店を既に作っていると説明した。御上が完全にご快復するまで、中山を置いていきますと話した。帰りには、必ず参内するようにとの話で、退去する事を認めていただいた。賜り物は、なつめと掛け軸であり、禁裏近くの屋敷も賜った。この時、帝が次平に与える事を考えていた官位は高く、松江公を上回るものであり、禁裏内部で、松江公との調整をしないと後で次平が困惑し、かえって次平を禁裏に取り込みにくいとして、松江公との調整が続いていた。この事が次平が松江藩の御殿医という立場から逃れられる理由になったのであるが、これはまだ先の話である。
三之助は、次平には何も聞かなかったが、京に中山を置いて、出立する話を知り、すべて理解した。三之助は次平と江戸や街道での話をして、鉄平と密談して、萩へかえっていった。
京からは、鴻池からの手配や禁裏御用の鑑札も聞いて、道中は素早く進んでいった。鉄平は大坂での店の様子も気になったが、すべて源三に任した方がいいとも考えていた。道中、次平は気さくに診察していたが、禁裏御用の医師となるとさすが次平に診察を頼む人は少なくなってきた。それでも時たま治療する事もあり、数週間かかっていた。江戸に到着して、松江藩の上屋敷に挨拶に行った。この時松江公から御殿医の職を解くとの知らせと、禁裏での官位が授けられている事を聞いた。従四位 侍従頭に準じるとの事である。 普通に下座で座った所、いや上座でお願いしますと言われ面食らった。
江戸の医院で、おゆきとともに旅の疲れを癒していると、面会する筈の御殿医が飛んできた。「長い道中ご苦労様でした。数日後禁裏からのご使者が到着する筈です。将軍家とのご面談を手配致します。」と言って去っていった。翌日次平は田宮の話を聞き、共に黒田藩上屋敷を訪問した。玄関は大層な準備がされて、道直が玄関先で平伏されているのが、見えた。田宮に聞くと、次平の出迎えとの事で、次平は驚き、道直に頭を上げてくれるように頼んだ。田宮の説明を聞きながら、道直を診察し、現在でも特に異常もなく、健やかである事に安堵した。次平先生、次平先生と若君が言われるので、閉口しながら、理由を尋ねた。次平の予定されていた官位は大大名並の官位で、黒田公とほとんど変わらないらしい。まあそんな事はどうでもいいですし、次平は「次平で結構ですと行った。若君もお元気で結構です。何か異状があれば、田宮に直ぐに行ってください。」と行った。若君は「もう若君と呼ぶのは止めてください。道直でも結構です。」と言って笑った。「江戸に来て急に官位と言われてもよく分かりません。禁裏からの使者や将軍家との面談等が急に気になってきましたた。どなたかそうした挨拶や装束に詳しい方をご紹介頂けないでしょうか」と次平はいった。道直は留守居にその旨を伝え、次平先生への昇進祝いとしてすべての装束は黒田藩で準備して差し上げるようにと言った。松江公は自分から命じて、禁裏に参内されたものの、家来を取られたとの思いがあり、やはり面白くなく、装束手配などには触れなかった。道直は事情を察したので、黒田藩の祝いとした。黒田藩は、2日で禁裏からの使者を迎える装束を作ってしまった。使者を迎える場所は江戸の医院では差しさわりもあり、鉄平の江戸の店が迎賓用に作っていた屋敷で、禁裏からの使者を迎える事になった。祝いは長州や鴻池などから届いた。帝から拝領した掛け軸は、この日を想定されたものであった。明日禁裏から使者が到着する前日には松江藩からも祝いが届いた。松江公も大人げない振る舞いは反省されたようであった。使者ではなく、留守居役が来て、私どもの不手際といって謝って帰った。
禁裏からの使者とか将軍家への目通りなどを済ませた。当初の御殿医との歓談や研究者との会合も、知的興奮を感じていた。一方京に残されて中山からは、毎日のように報告が入っていた。帝の症状は安定している様であったが、中山では荷が重いようであった。おゆきとくつろぎながらも、一旦京に戻るかと考えていた。
鉄平は、江戸の店が思いがけず、大きくなっていた事を実感した。田宮用の薬を提供するための薬種問屋だった。その後追加の金も各店名義で送った事はあるが、わずか2年ではないか。忠助が頑張っていて、利益が上がっている事は知っていた。実際自分の眼でみると店は思いがけず繁盛し、大きくなっていた。田宮のために作った医院も福岡藩の支援もあり、大きくなっているそうだ。これには訳があった。江戸の番頭の忠助は、田宮が使用するための薬が効能が優れている事を知った。そこで、富裕層を抱える医師や薬屋に高値で販売した。そして評判となった。一種のハングリーマーケットを作った。そして鉄平に薬屋などの得意先と働く人のための出資枠を取る事を提案し、採用させた。そして出資をして貰った薬屋や医師に金を出させながら、出資金への利益還元を約束して、薬の価格を大幅に下げた。一挙に薬の販売は急拡大した。鉄平は追加の資金も送ってくれた。資金面での不安は解消した。忠助自身も大金を得た。売上も上がったし、利益もあった。短期間での急に大きくなったのは、こうした訳があった。
江戸に来た鉄平は判ったが、忠助には特に注意もなかった。ただ鉄平は、長崎と相談しながら、薬の価格を下げる事も検討させた。忠助には、まだ高いよと言ったつもりだった。忠助は長崎からの薬はこんなものですよ。それに伍平さんも増産に苦労してますよ。といいながらも、分かりましたと言って、少し下げる事も検討していた。
そう言った裏のやり取りとは別に、大坂での出店の話や薬草園の拡充なども話しあった。薬草に強い農学者を店に入れ、薬草園の開発を江戸でも進める事になった。いくつか話をしてみると、鉄平には裏の計算もできる人で、それを細かく追求する人ではないが、よく知っている人だと忠助には判ってきた。ただこうした変更が、今後の江戸店にはいい事だと思う判断力は忠助にはあった。無言の対話が、鉄平と忠助との間であった。さりげない会話をしながら、忠助は鉄平を再評価していった。
鴻池の当主との話の前に、光次と会った。料理店はほとんど番頭にまかせ、錠前、農機具の改良そしてカラクリ人形も作っていた。お茶を運ぶカラクリ人形などをいじっていた。若い女が酒を運んできたので、これもカラクリと言ってたら、「私の女房で、お静と言います。」と言った。こんな若い娘を貰うとはそれこそカラクリだと言って大笑いになった。カラクリ人形に感心した鉄平はお茶はこぼれるから、お菓子ならもっと簡単だろう。何台か作ってくれないか。これはもらってもいいかなどと話し、カラクリ人形の操作方法などを教えて貰った。少年のように人形の動かせ方などを見ていた。光次の女房のお静は、たいそうなお金持ちで恐い人かと思っていたら、子どもみたいですねと笑って、下がっていった。鉄平はポツンと言った。「あの娘はお前の過去をしらないのだろう。これじゃお前も元に戻れないな。静かに暮らしていけよ。」「もっとも私の顔と名前が一致する人は数人しかいません。それに今は光次ですし。」 鉄平を翌日 鴻池の当主と話をしたが、隠居との約束も確認し、江戸でも協力できる所は協力していくと言う当たり障りのない結論で終わった。鉄平がうまいお饅頭が手に入りましたので、お一ついかがですかといってカラクリ人形に運ばせた。まだ若い当主であったが、大変喜び、実は私はこんなカラクリもの好きなんです。鉄平さんも好きなんですか?」鉄平はこう答えた。「まあ商売にはならないでしょうが、商売抜きに色々やらせているのてす。あくまで道楽ですが、ただ商売としての用途を考える人がいないかとも思っているのですが。」 鴻池の当主は座り直して「その話 私個人的に参加させてもらえますか? 私と鉄平さんが数百両だして、どんどんカラクリ物をつくらせましょう。 その後は又考えたらどうですか、今は商売としては成り立ちにくいように思います。無理に商売を考えるよりも、もっと自由に工夫を凝らす事があってもいいと私は思いますよ。決して無駄ではありませんよ。 親父に熱中していると怒られますが、カラクリ人形を私が道楽で買う事まで指図されませんよ。これ 分けてください。どうやって操作するのですか?」といって操作方法などで話は盛り上がった。鉄平が帰る時には、三百両が置かれていた。
鉄平は江戸での仕事が片づかない事や正式に官位を得た次平との旅は遠慮した方が賢明と判断した。田宮が教えていた弟子で、長崎に留学したいという若者2人と荷物持ち数人をつれて、おゆきと京に向かう事になった。禁裏と幕府の医事方の相談役でもあり、駕籠での移動であったが、次平は駕籠を抜け出し、二人で行列の前に歩くことも多かった。幕府の派遣された警護の役人は難色を示したが、警護の侍は駕籠の前方に固まり、次平とおゆきの前に侍が歩いていく変な行列であった。駕籠の中に乗らないと行けない時も多かったが、おゆきとはなしながら歩いて行くときは心がなごんだし、おゆきも幸せであった。京都の外れで毛利元親と会った。次平は挨拶に行った。忍びという事で挨拶に行き、おゆきをつれていき、結婚したい旨を相談した。おゆきはもうすぐ19才になろうとしていた。元親は、おゆきを公家の養女という形として婚姻すれば、いいのではないかと言った。長州は禁裏とは仲がよく、公家宛の書状を書いてくれた。次平は時次郎宛に手紙を書いて、事情を説明した。「思いかけず官位を賜ったので、時次郎の娘として妻にする事が出来ず、申し訳ない。さる公家の養女として婚礼する事の非礼を詫びた。」
京に着いて、中山の説明を聞くと、帝はすっかり快復されており、中山も京になじんでいるようであった。禁裏に参内すると帝は大変喜ばれた。中山もお気に入りであった。帝の前から下がると、近従から中山も禁裏の医官として正式に採用されたい意向と言われているが、次平として問題ないかと言われた。次平は宜しくお願い申し上げますと返答した。
次平とおゆきの結婚の相談もしたが、網元の娘では、帝の異例の処置が問題となる恐れがあるが、次平が相談したいと名前を上げた公家の娘なら、問題ないであろう。私の方からも話を通しておくといわれた。
次平は大坂にいる源三と相談して、かなりのお金と反物等を持って、中納言房親の屋敷に行った。中納言房親は既に高齢であり、世慣れた公家で、既に話が通っている事もあり了承した。「私の隠し子といってもいいのですがと言って笑った。ただ近従と相談して、結婚式は京都で、日程は追って知らせたい。おゆきは少し、私の屋敷で暮らしてもらう事になるが、なに 形式だけでいいので、次平殿とおゆき殿は、暫く京に留まり、結婚の数日前に私の屋敷にくればよい。」
宿に下がると中山が来ており、「次平先生は京に屋敷を賜っているのですから、屋敷に来てください。家令や用人が不安がります。私も別に屋敷を賜る予定です。」
長崎留学に向かう予定の医師たちは京都見学しており、取りあえず次平の屋敷で手伝いをしていた。江戸、福岡、萩、長崎からの書簡は頻繁に届いていた。萩の店からは時次郎の手紙もあった。「おゆきは女中でもお妾でもいい。先生の側にいたいと言って出ていった。大変なご出世をされたのに、奥様にして頂けるだけで、私は望外の幸せで喜んでおります。宜しくお願いいたします。」中納言房親からも使者が来た。「御上のご意向もあり、至急取りはからえという事で、約1カ月後の日までご指定になった。おゆきは不自由だろうが、20日前までには屋敷に来るように」との事であった。 次平は、鉄平に手紙を書き、松江公、毛利公、黒田公、父と兄に報告し、時次郎にはぜひ京に来るように勧めた。
父と兄も喜んでおり、時次郎も飛んできた。御上からの賜り物も下さり、結婚式は盛大に行われた。鉄平は江戸で問題があるらしく、結婚式前日にやっときて、末席にひっそり座って喜んでいた。官位と屋敷を賜ったので、当分は京を動けず、中山と一緒に禁裏に参内したり、京が気に入り、長崎への留学をひとまず延期した医師がいて、京で医院を開設させた。その他数人の医師が集まってきた。
鉄平は、源三と京の店で話をして、大坂で鴻池のご隠居にも挨拶とお礼にいったりしていたが、料理屋を入手したいという鉄平の考え方には感心して、河内屋を使って、安く斡旋してもらった。大坂での店は開店予定の前から注文が入っており、開店が早めになってしまっていた。薬種問屋と物産問屋を併せても四千両弱で済んだ。半分の出資比率は、約束として鉄平は守った。残り千両は運転資金として当初置いていたが、ほとんど使っていなかった。
通常売り掛け代金の回収は当時は長かったが、鉄平の店では、現金決済時には割り引いたので、現金決済比率が高く、資金繰りにもそんなに苦労しなかった。鴻池では運転資金は融資の形で考えていたが、鉄平らの準備している資金で十分だったし、福岡藩や長州藩御用に加え、禁裏御用の評判がある上に、良質で、1割強安価であった。現金決済時には更に5分上乗せて割り引いたので、他の店よりも大坂では特に現金決済比率が高いようであった。
鉄平は急いで、江戸に戻った。鉄平は、5年ぶりで、江戸で盗賊時分の昔の女 お香と会っていた。鉄平が盗賊で勝二と言っていた時に可愛がっていた。情報収集だけをする役割であり、その情報だけで、純次のように盗みも手伝うわけでもなかった。鉄平配下の者もその存在は知らなかった。勝二は常に1人つづ会って、配下もお互いに知らなかった。それでもお香は盗賊の手伝いが嫌いになり、盗賊の手伝いを止め、鉄平にも止めて一緒に暮らそうといったが、鉄平も心の病を抱えていたので、未来は考えられなかった。鉄平はお香はもう他の男と所帯を持っているものと思っていたが、お香は独り身だった。鉄平が「おれのせいか?」と軽い口調で言うと、お香はまじめな顔で「そうだよ」と言った。鉄平は次ぎの句が言えなかった。お香は今 髪結いをして生計を立てていると言う。鉄平が盗賊を止めているかどうか知りたがった。お香はそうなら、食べさせてあげるとも言った。 鉄平はお香が気かがりで戻っていた。 鉄平は盗賊は止めて、薬種問屋に勤めて、今は鉄平と名乗って、江戸の店に来ているといった。鉄平の薬種問屋はもう大店と言われるほど大きく、福岡藩や長州藩御用達だったし、良く効いて値段も安いので繁盛しており、お香も名前は知っていた。ただ旦那は江戸に来た事がない店として有名だった。勝二が鉄平となっていたとは知らなかった。
ただ鉄平の店は、色々な出資を受け入れ、それに対する利益配分も行っており、通常の店のようにすべて鉄平のものと言うわけではなかった。特に江戸では、当初黒田藩の若様へ提供する薬だけを確保する必要で、小さい規模で始めた。ただ通常の販売もするようになって、この薬を必要とした薬屋たちや医者たちからの出資も受け入れていた。利益配分に回す比率は約半分としていたし、江戸の店は好調で、当初から既に出資金の6割程度は1年間で、利益配分として現金で出資者に返した。当初長崎の店の余剰金と鉄平の資産で開始していたが、各店からも出資して増やした。鉄平は江戸に行かなかった事もあり、利益還元とした出した金額の中で番頭を含め江戸の店で働いている人の出資金とする事も受け入れていた。そうすれば、働いている人のやる気もでるだろうと忠助も言ってきていたし、鉄平もそう思って了承した。鉄平は大坂の店を開くまで、自分宛の利益配分は受け取らず、更に出資としていた。江戸の店では、近在に出店を出したり、薬草園を買ったりしていた。そのため江戸の店は一層繁盛し、利益配分もかなり高くなっていた。各店では利益率の低い人入れ屋や料理屋を抱えて、次平の医院への利益提供をしていたが、江戸ではそれはなく、次平の江戸医院へ利益還元は、出資金への利益還元であったため、利益率はかなり高かった。鉄平は、この店では半年毎に集計して、鉄平分を除いて現金で利益配分した。次平の江戸医院も鉄平が負担して出資した形となっていた。鉄平は自分の出資の一部を萩や福岡そして松江の店からの出資に置き換えていった。各店はお互いに出資する形となり、利益配分金は、今後は、各店の利益を調整する事も出来そうだった。
お香に「あんたの店なの」と言われたが、鉄平は「みんなの店だ」と言って、少しつづ説明していた。現に店や屋敷の名義等は番頭等の名義で分散してあり、色々な方面からの出資がされていた。お香は「なんでそんなに複雑な方法をしているの」と聞かれたが、今は盗賊ではないし、鉄平や藤一の盗みは盗まれたと言われた事がほとんどなかった。しかし用心は必要であるし、又 次平に助けられたといっても心臓疾患の病にかかったので、いつ再発するかもしれないし、死ぬかも知れない。妻も子もしない。それにこうしておけば、働く者にもやる気が出るだろうし、得意先も色々と助言をくれたりしているようである。
それに鉄平の事業は多岐に広がっていて、利益の高いものやほとんど慈善事業に近いものものも、この利益配分のおかげで、赤字は避けられている。利益の高い店では、鉄平の出資金を各店や低収益の事業からの出資金に置き換えており、収益性の低い分野での鉄平の出資比率が高くなっている。利益配分の金や各店の留保金などについても案分していた。
男と女の仲に戻り、お香と鉄平は、定期的に話を続けていた。鉄平は京に出かけていたり中断もあったが、お香の事もあり、直ぐに戻ってきていた。「じゃ今や あんたはお金持ちなんだ。折角私のひもにしてあげようと思ったのに。」とお香は言った。鉄平はお香に言った。「所帯を持とう。お前の髪結いは、人を雇ってやらせば、いい。そして 旅に出よう。あれの拘わっている事業はここ江戸だけじゃない。長崎、福岡、萩、松江そして大坂に広がっている。単に金を儲けるだけで広げたのじゃない。困っている人を助けるのじゃなくて、もはや困る事が無いようにしたい。貧しい人には、当座の金をやるだけではだめなんだ。働き場所を斡旋したり、色々と相談に乗っている事も必要なんだ。病気の人には治療や薬が必要な事は勿論だが、病気している時の食事や家族の問題、そして病後の職や食事なども必要なんだ。」と熱っぽく言った。お香はいった。「あんたは変わったね。」鉄平は続けた。「人は変わる。いい方にもわるい方にも。おれは盗賊時分、稼いだ金を色々な所に隠して置いたし、地所や金はあった。ただ身体が悪くなり、金を取り出せないまま ほとんど無一文でのたれ死に寸前に、若い医者であった次平に助けられた。次平は善意が服を着て生きているように、俺には思えた。そこで助けて貰ったお礼に、医院を造り、贈った。ただ次平はそこでも、金がある人やない人を分け隔たり無く治療した。金には無頓着だった。そこで、おれは金を管理して、自分の金も追加したりして、薬種問屋を買い取り、薬を安く、自由に使えるようにした。そうしている内に、病気になっている人の飯や仕事が問題になった。そのため、料理屋や人入れ屋などもやるようになった。暫くすると、おれが誰を助けているのではなく、俺自身が助けられている事に気づいた。それだけでない。善意の固まりと思っていた次平が、許嫁の復讐のために、人を殺そうと考えている事に気付いた。人を助けている人が、自分の手を血で汚そうとしている。俺はなんとしてでもそれを防ぎたかった。俺が色々と工作している内に、そいつらは自滅してしまった。因果応報があると思うと同時に、悪い事をしてきた人間が助かる道は狭いが、善意の固まりのような人が、突然地獄に入るもしれない。地獄への道は広いと俺は思い知った。 お香 俺と一緒に狭い道に歩いてくれ。」
お香は、暫く黙っていたが、「あんたは今は大店の旦那。何も知らない良家の娘を貰った方が得じゃないかい。幻の勝二として名前は知る人も、顔は知らない。お手配になった事もない。、あんたの昔を知っている年増の女じゃ後悔しないかい。私は結構焼き餅焼きかもしれないし、浮気は許さないよ」といった。鉄平は、「俺は焼き餅はすきだよ。じゃいいんだね。お前のひもにも魅力はあるが、髪結いは人に任せてくれ。」と言った。お香は直ぐに言った。「人にやったっていいんだよ。お前に一緒になれるなら。」 と鉄平にしがみついた。その晩はお香と共に過ごした。
鉄平は、お香をつれて、江戸の店に戻った。番頭は走ってきた。「旦那探してました。松江藩、長州藩、福岡藩のお留守居役様、田宮先生、御殿医の良庵先生、鴻池のご主人からも直ぐに連絡が欲しいそうです。用向きは旦那様以外には言えないようで、書簡をおいて行きました。次平先生や大坂の源三さんからも飛脚が届いていますし、各店からの連絡が届いています。幸三の所の飛脚屋からは、返事を貰いに今朝早くきましたが、旦那様が戻っていないので、返しました。光次さんから人形が届いています。なんですかあの人形は?連絡先を知らせて貰わなくては、困ります。」と強い口調で言った。鉄平は、言った。「私の嫁になる人を口説いていた。昔付き合っていた人とばったり会った。多少の事は辛抱してくれ。これが私の嫁のお香だ。仲良くしてやってくれ。」と意ってお香を紹介した。お香は、「お香です。宜しくお願いします」と言った。番頭は絶句していたが、「こちらこそ宜しくお願いします。」と言ったものの、鉄平に「旦那の婚礼は大変な事です。至急準備しますが、それぞれの店にとっても浮沈に拘わる事ですよ。そんなに簡単な事じゃない。少しは前もって話して下さい。私から各店に連絡して置きます。」と言って、手代に、幸三の飛脚屋の番頭をすぐに呼ぶように言った。
鉄平は、お香をつれて奥に行き、溜まっていた書簡や手紙を読め始めた。お香は所在なげにしていたが、やがて光次からの人形を見ていた。 溜まっていた書簡や手紙を読んでいた鉄平は、手代や丁稚を何人か呼んで、それぞれ用事といいつけていた。お香に言った。「鴻池というとあの鴻池なの? そんな人と付き合っているの。」鉄平は、「人は変わるものだよ。お香。俺達も変わらなくては。 俺は色々と挨拶に行かなくてはならない。俺と一緒について来てくれ。」と言った。
お香は鉄平の店の丁稚に、お香の店に今日は急用が出来て店に行けない旨連絡を頼んだ。鉄平は、鴻池の別邸に人形を2台届けるようにいいつけてから、番頭に言った。「松江藩、長州藩、福岡藩の江戸屋敷、田宮先生、良庵先生、鴻池の別邸に行く。帰りは遅い。飛脚屋にはあす午前中に来るようにいってくれ。駕籠は買い切りで2丁用意してくれ。来たら呼んでくれ。奥で返事を書いている。」
お香は、覚悟を決めて髪を直していると、番頭が貸衣装屋をつれて来た。「奥様 取りあえず貸衣装ですが、袖を通した事のない新品を持ってこさせました、お好きなものを選んでください。」と言った。お香は番頭に礼を言って、服を着替えた。ほどなく駕籠が到着し、鉄平とともに、駕籠に乗った。各藩邸では次平のにそれぞれ屋敷を用意している。それぞれ城下に来て遠慮なく使って欲しい。ついては、医事方の相談役になってもらえるように、鉄平から言って欲しいと云うものであった。鉄平はお香を紹介し、私の妻です。よろしくお引き回し下さいと紹介した。長州や福岡藩では、藩主や若君までぜひ会いたいと言って出てきた。田宮は、次平が幕府から屋敷を賜り、医事方相談役を賜った事についての各方面への挨拶や今後の江戸の医院の運営について意見を交換した。次平の江戸医院も、幕府から何人かの研修生を受け入れる必要があると田宮が言うので、「それは良いことですね。」と言った。お香を紹介すると、「次平先生はご承知ですか」と言われたので、「次平先生とは手紙を書いておきます。」と答えた。田宮も、次平先生も鉄平さんも結婚した。私もいい人をみつけようといった。
良庵には、次平が幕府から屋敷を賜り、医事方相談役を賜った事について礼を申し上げた。良庵は、今回の決定に至る裏方での動きと今後の動向についての注意などを話してくれた。お香を紹介すると、良庵は、これで鉄平さんは二人分動けますねと言った。鉄平は「暫くお香とは離れませんので、それは難しいと思います。」と答えた。良庵は「お熱い事ですが、お香さん 貴方は鉄平さん以上になりそうですね。良庵を宜しくお願いします。」と言った。お香は「おからかいにならないで下さい。私は何もわかりません。宜しくご指導下さい。」と言った。 お香は鉄平が、良庵の屋敷に行く前に、鉄平の店から届いた「反物と小判」を、こっそり良庵に届けていた事を見ていた。
最後に夕刻、鴻池の別邸に、お香と共に伺い、お香を控えの間に待たせ、挨拶しようとすると、「鉄平さん、いつ口説いたですか、よくそんな時間がありましたね。親父には早速連絡しておきました。ぜひ紹介して下さい。なぜすぐここにつれてこないんですか?」
お香が頭下げて、挨拶しようとすると、「お香さんですね。江戸堀で髪結いをやっておられた様ですが、鉄平さんが髪結いの亭主になれなくて残念ですね。鉄平さんは今は人を助ける仕事をしておられます。鉄平さんを助けてあげて下さい。鴻池吉太郎です。よろしくお願いします。」と気さくに挨拶された。お香は、この人は何でも知っていると一瞬絶句したが、「ひもにするつもりが大変な事になりました。何も分かりません。宜しくご指導下さい。」とだけ答えた。「鉄平さんがひもか、さすが鉄平さんの奥さんだ。この人は鉄平さん以上の人になるかもしれません。次平先生は可憐な奥様を御貰いだそうで、鉄平さんはお香さん。これはよくお似合いだ。ご婚礼の日取りがきまりましたら、ぜひお知らせ下さい。次平先生は、帝の賜り物もあり、商人風情の出る幕はありませんでしたが、鉄平さんは商人。今後のお付き合いも宜しくお願いします。」と言われた。その後鉄平とは大坂の店は順調でなによりだが、鴻池は何も言わないので、出資比率は維持してくれるように確認した。隠居は鉄平の大坂店内で、結局鴻池からの2千両出資されているが、千両はまだ使用しないで残っているし、このままでは初年度から、利益分配金は出資金の2割程度となりそうだし、鴻池の協力なしでも十分やっていけるし、金の無駄遣いになるという声が出ている事が気になっていた。鉄平は「物産問屋の今後を考えても鴻池との協力は大切に思っている。大坂店の余剰金については、今後の様子を見ながら、運転資金を十分に取り、それでも残る余剰金の相当部分は、その運用は、別途鴻池さんに任せる事で考えている。いずれ源三とも話をしたい。江戸での物産問屋についても鴻池さんと協力して話をして行く事で検討していきたい。ただ手前共の各店では、急に大きくなって人の育成が追いついていない。次平先生の人柄を慕ってきた人と次平先生の治療に協力して大きくなった事を忘れてはいけない。暫くお香と一緒に各店をゆっくり回って考えたい。」と答えた。
吉太郎はいった。「私もそれはやりたいですよ。鉄平さんに人の育成といわれると返す言葉がない。丹波屋の件はまことに申し訳ない。その上 その後のご配慮には、親父も感心していた。お香さん 髪結いのお仕事は、5年間居抜きで私どもに任せて頂けませんか?今 働いている方には悪いようにはしません。身の回りの運送も私どもに任せてください。明後日にも人をやります。」 お香は「万事 お任せします。私は明日みんなに説明します。今働いてもらっていく人の身の立つようにお願いします。」と即答した。
吉太郎は人を呼んで人形を持ってくるようにいい。何か別の用事を言いつけた。「お香さん。仕事の話はこれまで。ちょっと鉄平さんとカラクリ人形の話をします。お香さんには、呉服屋を呼んでますので、暇つぶしして下さい。」といった。
丹波屋の件というのは、大坂の物産問屋での運送で、鴻池の指定した丹波屋という運送屋が、ある物を市価の倍ほど運送料を請求してきた。物産問屋が、うまく行っているのは、鴻池のおかげといわんばかりの態度で、請求してきた。大坂の物産問屋の内部では、激怒して物産問屋の番頭の理平もさすがに抗議すると言っていたのが、源三にも伝わってきた。源三は人のふりみて自分の鏡とせよと言って、抗議も大人げないし、いいなりにお金を払うようにした。むしろ、理平から知った鴻池側の河内屋が驚き、ご隠居と相談して調査した。この倍額請求は丹波屋の番頭が自分の金がいるので、密かに倍額にして請求して、差額を手に入れたものであった。そこでその番頭に暇を出し、丹波屋の主人に源三に謝りに行かせた。その数日後 源三が河内屋に抗議した。「私共の調査では、倍額請求した番頭の子どもが病気に掛かり、医者代がかさみ、鴻池が出資している相手先なら問題ないだろうと倍額請求したもので、私共では高額請求していた医者から子どもに詳しい良心的な医者を紹介して、変えさせた。子どもさんは病状も安定し、番頭さんも差額分を返し、後悔している。そんな事をさせては私共に対して遺恨が残る。手前共は次平先生の治療に役立てる為に、少しでも安価で良質な薬を提供しようと旦那が作った店である。こんな事が手前どもの旦那に知れたら、私が叱られる。もしこのままであれば、私どもであの番頭さんを雇いたい。」 河内屋は、ご隠居と話し、丹波屋は反省神妙であるとして、暇を取り消して、雇い直したと言うものであった。
お香は、鉄平の店の番頭といい、吉太郎といい、心配りが尋常でない。こんな人たちと付き合うようになった鉄平に驚いていた。そして鉄平を変えた次平にも会いたくなった。
お香はそう思いながら、鉄平に恥をかかせない程度の着物も持っておこうと思い、改まった所に会う数点の着物と帯を選んだ。値はいかほどと聞いたが、呉服屋は、奥様のお好みのものを選んでいただければ結構ですと言って値段は決して言わなかった。
鉄平と吉太郎はカラクリ人形の話をしていた。まるで少年のような顔をして話をしていた。お香は鉄平がより一層好きになった。吉太郎は、一緒に食事をしていきませんかと声をかけたが、鉄平は「まだ新婚なので」と言うと、吉太郎は「野暮でしたね」と言って送り出した。
鉄平は、お香をつれて、向島の料亭に入った。奥まった離れに座敷が設けられていた。「鉄平さん お香さんでしたね おめでとう御座います」と言って、光次が現れた。「鉄平さんあの人形どうですか。」鉄平と光次はカラクリ人形について話をし、光次は下がっていった。
料理が運ばれ、料理を食べながらお香は言った。「光次さんと言うのはもしや開かずの藤一では?」鉄平は言った。「勝二も藤一はもういない。人は変わる。いい様にも悪い様にも。」
お香は、「物産問屋の話は、何なの? 丹波屋の件とは何なの?」と聞いた。鉄平は言った。「医院を次平のために作った。薬については、次平が指定する薬を探すのは、大変だし、薬種問屋では混ぜ物や良質でないものもあり、薬代も高かった。それで薬種問屋をやりだした。各地での薬種問屋は、次平の使う薬には、珍しい薬もあるし、今の段階では秘密にしておきたい薬もあり、次平が治療する時には必要だった。食事が適切でなかったり、又激しい仕事をして、再び病気になる人がいたので、料理屋と口入れ屋などもやり始めた。ただそれでも限界がある事に気づいてきた。それは仕事の調整だけであって仕事そのものを作りだす必要があると気が付いた。大坂や江戸での物産問屋をやれば、長崎、福岡、萩、松江など各地での仕事を作り出す事が出来るかも知れない。大坂でやり始めたばかりで、まだどうすればいいのか分からない。しかしやがて江戸での物産問屋も必要となるだろう。大坂で鴻池と協力して、異なる見方や情報が大切な事もよく分かった。お香の目を役立ててくれないか? 」と言い、丹波屋の件については説明した。「そんな大変な事を私が出来るかしら。光次さんのカラクリ人形はどうなの?」とお香はいった。「カラクリ人形はまだ道楽でしかないが、あんな細工物も今後何か役立つかもしれない。色々な人の経験や意見を纏めてやっていけばいい。善意の人、才能のある人や努力する人と付き合うと自分も少しつづ変わっていく。俺はそれを強く感じている。 お香 江戸の番頭の忠助は、他の江戸の薬種問屋で働いていた。俺がはじめ送り込んだ長崎の五平は、江戸に馴染めず、忠助を引き抜き、さっさと長崎に帰ってしまった。 各店間の融通や利益配分については、以前からしていた事だが、これほど緻密ではなかったのが、忠助が考え、得意先や店の主立ったものからも出資金を出してもらい、江戸の店は大きくなった。もっとも忠助の取り分はかなり多いが、多くの人から出資してもらっているので、今の店の状況についても誰にでも説明できるようになった。それでみんな頑張れるし、色々と意見も出てくるようになった。江戸がうまくいけば、俺の出資金への利益配分金の一部を使って各店や江戸の医院への出資金とし、それを江戸の店へ出資金とすれば、各店や江戸の医院の経営が安定できると言ってきた。」お香「でもあんたの取り分は減るんだよ。悪く考えればあんたへの払いを減らすだけかもしれないと考えないの?」鉄平「厳しく追及しても意味はない。ある程度は仕方ない。それに松江や萩や福岡などの店では、今後はその利益配分で助かる事が出来るし、江戸の医院も安定してきた。江戸はまったく忠助に任していたのに、こんなに大きくなっている。任せる時はみんな任せないと、うまくいかないよ。」お香「ふーん。あんたも本当に変わったね。あんたの薬種問屋は良質で他より安い事も有名だが、店のものがよく働き、薬屋や医者がよく使うのは、そうした利益配分も効いているのかもしれないね。それに店の状況がはっきりわかる事は良いことだね。次平先生の医院もいいお医者がいるし、薬も良く効くし、貧乏人も治療してくれると評判だよ。もっとも次平先生やあんたの事は知らなかったけど。」鉄平とお香は、光次の店で何度も話し合った。これからの自分の苦労を思うと、一度決意したが、逃げだそうと思う気持ちを押さえるように、鉄平を求めた。鉄平が自分の中に入っている時の満足感が、鉄平と歩く決意を固めさせた。鉄平は、そんなお香の気持ちを汲み、光次に暫く離れを借りる事を頼み、光次は、黙って離れを貸してくれていた。お香は、鉄平のものを舐め、しゃぶり、鉄平を自分の中に入れ、淫らな自分を見せて、自分で動いて、あえでいた。お香は、鉄平に言った。「私は、こんな女だよ。それでもいいんだね。下品な女だよ。それでもいいんだね。」鉄平は、「そんなお香が好きだよ。」お香は、鉄平に抱きつき、自分の中の鉄平が、お香の身体が、お香の決意を固めさせた。お香は思っていた。「こいつと離れている間に、何人の男と寝た。技を持っている男もいた。だがこんな充実感はなかった。 もうこいつとは離れられない。」
江戸の店に帰ると、番頭の忠助が待っていた。「旦那 奥の座敷を見てください。松江藩、長州藩、福岡藩、防府藩の江戸屋敷と田宮先生と次平先生の江戸医院と良庵先生から婚礼のお祝いが、届いて居ます。私もちゃんと説明して出来ないし、きちんとした応対が出来ないと店の者には責められるし、薬種問屋のご同業からも問い合わせが続いて、大変でした。良庵先生からは、御殿医筆頭には連絡しておいた。婚礼の日がきまったら直ぐに連絡して欲しいと脅されています。各店には飛脚を出していますが、案内しないと大騒ぎになりますよ。」 鉄平はお香に言った。「明日でも式をあげようか」、お香「あいよ。」と返した。番頭が慌てて「そんな馬鹿な事を言っては困ります。でも早急にした方がよいかもしれません。一番早い日はいつになるか明日から検討させます。式の出席者についてはあたしに任せてください。一々旦那の確認はとりませんよ。次平先生には早急に連絡してください。」お香は言った。「この貸衣装 いつ取りにきますか?」番頭は即答した。「既に買い取りました。奥様のお見回りの品は既に運び込みました。」
「どちらにしても次平先生には、もう一度江戸に来て貰わなければならない。次平先生は今は京に滞在している。早急に手紙を出そう。」と鉄平は言った。
鉄平は次平宛に手紙を出して、各藩や幕府からの意向や良庵との会談結果などを伝えた後、お香と婚礼を上げるので、江戸に出るように依頼した。その後各店からの連絡を読み、短い返書とお香を嫁として、各店に行き、ゆっくり滞在したい旨を付け加えた。
結局 鉄平の婚礼は、1カ月ほど後になった。次平は、禁裏の近従にも医事方相談役の就任について内諾をとり、1週間前に江戸に着き、幕府からの屋敷と医事方相談役についてお礼を述べた。松江、長州、福岡各藩については、医事方相談役については、了解し、各城下での屋敷には医学生を置く事の了解を得た。
次平は江戸に来ると直ぐにお香に会いに来て、婚礼の祝いを言った。お香は始めて次平と会った。名医で官位も賜ったというのに、まだ若い純粋な青年だった。次平は、鉄平の嫁と言うだけで、私の過去も聞かず、気さくに、丁寧に話をしてくれる。
こんな人が鉄平を変えたのだ。一人でも自分が直せるものならば、治したいと熱っぽく語るこの人は純粋と善意が、世の中の汚れを全く浴びず、大きくなったような人だ。鉄平はこんな人が、人を殺そうとしていたと言った。本当の事だろうか? おゆきも次平を慕い、細々と世話をしている純情そのもの若い娘と行ってもいい。純粋と純情の夫婦なのだ。私は違う。世の中をうまく泳ごうとして、盗賊の手先にもなり、人には言えない事もしてきた女だ。付き合っていけるだろうか? お香は、思い直した。私は私なのだ。下品と言われようと、あばずれと言われようと、私は私なのだ。繕っても仕方ない。私なりに、鉄平と一緒に進んでいくしかないのだと、お香は思っていた。
お香は、今までの髪結いを5年間の期限で、鴻池の指定する者に五百両で貸す事になった。これは、破格の条件であった。売ってもいいとお香はいったが、吉太郎は、お香さん自身の財布と資産を持っている事は大切だと言った。鴻池の屋敷で、お香の選んだ着物と帯は呉服屋が持ってきた。素晴らしい出来上がりだった。お勘定といっても、結構です。次回はお買いあげ下さい。といって帰った。次ぎに買った時は相当高かった。初めの着物や帯は、鴻池が払ったのか、呉服屋が持ったのか、分からなかったが、お香は、大変な状況に置かれている事は理解した。
鉄平とお香の式は盛大に行われた。江戸の店は内祝いといって各藩邸や得意先に色々な贈物を配っていた。忠助にとっては、これも商売の手段だった。馴染みの少ない薬屋や医者への販路拡大に利用していた。
次平は、幕府から江戸での屋敷を賜った事もあり、直ぐに京に帰る事は憚れたし、鉄平夫婦の邪魔をする気もなかったので、鉄平には、創立後の大坂での薬種問屋を見るために、先に大坂に行く事を勧めた。
鉄平は江戸では、お香との話も十分取れず、大坂の薬種問屋や物産問屋を見に行く事を名目に、お香と二人で大坂に向かおうとしていた。忠助は、それは困りますと言って、連絡役と荷物持ちを付けた。連絡役は、宿場についたら、必ず居場所と今後の予定について江戸の店に連絡するようにと厳命されていた。
鉄平夫婦が大坂に去った後、江戸の医院で患者を診たり、江戸城に行ったり、御殿医などとも意見交換したりしていた。田宮と共に黒田公の若君である黒田道直の診察をしていた。開胸して調べる事は出来ないものの、道直の心臓の異状はほとんど感じられなくなっていた。外科的処置が必要と思ったのに、これはどういう事だろうか、試行錯誤で様々な薬を使用してきたが、田宮と色々と話をした。いくつかの仮案を考えて、試案ではあるがとの前提で各医院と京二と中山に連絡した。人間の身体の可能性は我々の考えているよりも多様で不思議なものである事を決して忘れてはならないと付記しておいた。江戸の医院で、かなりの青年が医師を志すために医院を訪れ、医院で働き、有為の青年に医学を勉強させるために、長崎に派遣した事もあった。もう長崎だけが西洋への窓口とは言えないものの、青雲の志を持った青年医師には希望の扉を開けておく方が良いのだ。江戸医院は石原の元に、効き目のある鉄平の薬を使い、医師を増やし、病院は大きくなっていた。病人に取っては命がけの選択なのだ。医師はその思いを受け止められる技術と志が必要なのだ。、各医院でもいくつかの試みをしてみようと思った。次平自身も再び長崎に行ってみよう。石部との約束の三年は守られそうにないが、やはり行ってみようと思った。禁裏にも帰らなくてはいけない。良庵や医事方筆頭にも了解を取り、おゆきとともに旅に出る事にした。田宮と江戸の医院の筆頭である石原は、相談して長崎行きを希望していた若い医師を1人付けて、次平先生の手助けと連絡先を必ず江戸の医院にするようにと厳命していた。
おゆきと医師2人、荷物役などをつれて旅に出た。途中伊豆の海岸を歩いている時に、海に早苗の顔が浮かんだように思えた。次平は、胸の中で言った。「早苗の敵はこの手で討てず、申し訳ない。こんな事でお前の恨みは晴らせないかもしれないが、その代わり、一人でも多くの患者が助ける事を、私は考えてきた。それしか私には出来なかった」、早苗の顔が頷いたように、次平には思えた。おゆきが怪訝そうにこちらを見た。すると早苗の顔が急に怒ったような顔になっているように思えた。「ごめんね」と誰に聞かせるともなく、次平はつぶやいた。
次平の挑戦 に続く |
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