語学学習は難しいものです。その理由はいろいろとありますが、語学学習上の要諦を理解していないことが原因になっている場合があります。
語学学習の要諦とは<理解すること>と<慣れること>の両方を行う必要がある。ということです。多くの語学参考書などでは<慣れること>の方だけを強調していることが多いようですが、これは正しい方法ではありません。この<理解すること>と<慣れること>の2つが相互に依存する関係にある点が語学学習を難しくする要因となっているのです。つまり、<理解するためには、その前提として慣れておく>必要がありますし、<慣れるためには、その前提として理解しておく>必要があるのです。このため、<卵が先か、鶏が先か>という状態になり、学習する方法をきちんと把握した上で学習を進めないと、なかなか習得できないのです。
この<理解すること>が<慣れること>につながり、<慣れること>が<理解すること>につながることで確実な習得につながっていきます。これはちょうど上昇するスパイラル(らせん構造)を描くようなイメージで着実に習得できるようになります。逆に<理解しないまま>に慣れようとしても、本当に<慣れること>ができませんし、<慣れないまま>に理解しようとしても、本当に<理解すること>ができなくなりますので、下降するスパイラル(らせん構造)を描くようなイメージでまったく習得できないだけでなく、苦手意識を持つようになってしまうのです。
たいていの語学習得方法は「慣れること」しか言っていません。これでは「理解せずに慣れる=丸暗記」を勧めていることになります。いわゆる「語学の達人」は何らかの理由で「理解できなくても」繰り返すことを飽きずに行った結果、上達したのであって、本当の習得方法が理解できているとは思えません。
この点に関して、ドイツ語学の大家である関口存男は『新ドイツ語大講座』の下巻「文法詳説編」の序文で以下のように述べています。
理論と実際、反省と進出、精読と多読、「識る」と「慣れる」は弁証論的相関関係の上に立つ一種の律動で、いくら理屈を抜きにしてジャンジャン実際に盲突して行けば好いといっても、全然何の理屈も知らずに盲突したのでは、盲突はついに本当の盲突になってしまう惧れがある一方、さて理窟はまた理窟で、これまたある種の理窟の上に立っていて、理窟とはいいながら実は理窟ではなく、ある程度まで理窟を抜きにして実際にぶつかって見た者にとってのみ有難さがわかるのがこれが本当の理窟で、理窟が大事だからといって初めから先ず理窟をやったのでは折角の理屈が何の役にも立ちません。
理窟が理窟として効果を収めんがためには、その前に先ず一切の理窟を抜きにした猪突猛進の実際がなければならぬ---一切の理窟を抜きにした猪突猛進の実際をして多少の成果を挙げしめんがためには、その段階に応じた多少の理窟を呑み込んでかかることが必須不可欠の予備条件である・・・まるで「いたちごっこ」みたいな話ですが、これが凡(あら)ゆる精神労働のリズムであると同時に人間界の発達を規制する理法です
これを解決するには、それぞれの言語の全体概要をまず把握し、その後、その全体概要と関連させながら、少しずつ細部を学習していくことにより、少しずつ習得していくことが必要になります。つまり、「全部、一度に、完全に」ではなく、「少しずつ、何度も、漆塗りのように」行うことが肝要なのです。つまり、全体概要を把握した上で、短期間で達成できる目標を段階的に用意して、少しずつ学習を進めていくことになります。その際、必ず予備日を設けておいて、予定通り進められなくても、後で挽回できるようにしておくことが必要です。
また、言語の習得は母国語の場合であれば、聞き(listening)—話し(speaking)—読み(reading)—書き(writing)の順に習得することになっていますし、外国語の習得も同じ順序で行うべきだという見解が多いようですが、実体験から言えば、この考え方は誤りです。外国語の場合は、読み(reading)—聞き(listening)—話し(speaking)—書き(writing)の順で学習するのが効率的だと思います。といっても、ラテン語の場合は、聞き(listening)—話し(speaking)が求められることは少ないかもしれませんが、それでも、読み(reading)—書き(writing)の能力だけを習得すればよいと言うことではありません。やはり上記の4つの能力を多少バランスを欠いたとしても、習得していく必要があります。