文法を学習する前にまず必要となるのが、「言語とは何か」をきちんと認識しておく必要があります。
一般的には、フェルディナン・ド・ソシュールが、共時言語学においてラング(言語の社会的側面)とパロール(言語の個人的側面)に分けて、ラング=言語規範を言語としたレベルに留まり、それ以上の進展はないように思われます。しかし、ラング=言語規範=言語という言語観では、実際に表現された音声や文字は<言語>ではないことになってしまいます。
また、欧米の言語学は母国語が表音文字のせいか、音声言語のみが言語学の対象であり、文字言語は言語学の対象ではないとか、二次的な対象であるかのようにされていることが多いようです。
このため、そのままでは言語学習には何の参考にもならないものとなっているのが現状です。そこで、ここでは時枝誠記が提唱し、三浦つとむが批判的に発展させた「言語過程説」を中心に概要だけを説明します。特に動詞の時制についてはこの「言語過程説」によらなければ、理解できないと思います。
ごく単純に言ってしまうと、言語過程説では、言語を「表現対象→認識→表現という過程(プロセス)と関係づけられた音声や文字」と定義しています。そして、この表現対象・認識・表現のそれぞれに言語規範が結びついていることで、自分の頭の中で考えていることを他者に伝達できるようになっているのです。ここで、言語規範は表現対象・認識・表現のそれぞれについてグループ化する作用があるので、有限の語彙や文法で無限の現象や認識を把握することができるのです。
ここで「表現対象」とは、現実に存在するものであれ、空想で考えたものであれ、客観的に捉えたときの対象を指しています。これは言語の種類によって、何をどうグループ化するか異なっています。たとえば、鉄道の<駅>は日本語では地上を走る鉄道も地下鉄も<駅>ですが、フランス語では地上を走る鉄道の<駅>は"gare"、地下鉄の<駅>は"station"と異なるグループ化をしています。また、逆に日本語では鱗翅目の生物を<蝶>と<蛾>、英語では"butterfly"と"moth"に分けますが、フランス語ではいずれも"papillon"という1つのグループに分類してしまいます。
次に「認識」とは「表現対象」を主観的にどう捉えるかということです。たとえば、日本では太陽の色は「赤」と考えられています。おそらく日本で幼稚園児のほぼ全員が太陽の色を塗るときに、赤いクレヨンを使うと思います。しかし、英語では"The sun is yellow."といい、英語を母語とする子供たちは黄色い色を使います。もし"The sun is red."という表現をすれば、それはSF小説で赤色巨星の話をしているか、あるいは誤った認識をしているということになってしまいます。
さらに「表現」は実際にどのような音声や文字を使って表現するかということです。これも言語の種類によってさまざまに異なっています。ラテン語ではアルファベット26文字ですべて表現しますが、日本語はひらがな・カタカナ・漢字と数多くのさまざまな文字を使い分けています。また、この「表現」というプロセスは「表現対象」や「認識」のプロセスが<過去>や<未来>のことを言及することができるのに対して、<現在>時点でしか実行できないという特徴があります。
話し手(情報発信者)は、このようにして表現した音声や文字を聞き手(情報受信者)が逆に「表現→認識→表現対象」というプロセスを逆にたどることでコミュニケーションが可能になります。ただし、聞き手(情報受信者)はあくまでも、話し手(情報発信者)が表現した音声や文字を言語規範を頼りに「表現→認識→表現対象」と逆にたどっているだけなので、話し手(情報発信者)の意図とは全く異なる内容を受け取ることがあります。また、本来言語ではないものも言語と認識する場合があります。たとえば、日本では秋の虫の音を言語として受け取ったりしています。