『二度生まれの男・パウロ物語』
さて、パウロの時代のユダヤ人の言葉についてですが、父祖の言葉であるヘブライ語はすでに使わ
れなくなっていて、当時、中近東で広く使われていたアラム語が日常的に話されていました。イエスやイ
エスの弟子たちもアラム語を話していました。ただし、律法(モーセ五書)はヘブライ語で書いてあった
ので、律法学者やパリサイ派の人々はヘブライ語も解しました。さらに、当時のユダヤ人の中のかなり
の人々が、ヘレニズム世界の各都市に居住していて、彼らはディアスポラのユダヤ人と呼ばれ、パウロ
の時代には、彼らの多くがコイネー・ギリシア語(ある程度簡略化され、東方の言語やラテン語の影響を
受けた、ヘレニズム時代のギリシア語)を日常的に話していました。そして、ディアスポラのユダヤ人
は、普通、ギリシア語名とともにアラム語名も持っていて、パウロのアラム語名はサウロといいました。
パウロの生誕の地であるタルソという都市は、当時は陸と海との交通の要衝であり、経済も繁栄をき
わめ、ヘレニズム文化の一つの中心地でもありました。また、当時の学問的水準においても、他の優れ
た諸都市に決して劣らないものを持っていました。そのようなヘレニズム文化の社会の中で、ユダヤ人
たちは、一方では、ローマ市民権を与えられた市民としてヘレニズム文化に適応し、政治や経済の面で
もヘレニズム文化に適応して生活していました。他方では、ユダヤ教の伝統を失うことなく、都市社会に
対して自らを宗教的に遮断し、どの民族よりもかたくなに、自己の信仰と、ユダヤ教を中核とした民族的
統一体を維持しようと努めていました。
パウロは、そのような異郷の地に住むディアスポラのユダヤ人の家庭に生まれたのです。したがっ
て、彼は、ユダヤ人としての文化を内面化しており、しかも、政治・経済の面ではヘレニズム文化に適応
しながら生活している父母に育てられながら成長していくことになります。
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