『二度生まれの男・パウロ物語』
さて、パウロとバルナバはどのようなことで対立したのでしょうか。それは「割礼問題」でした。ユダヤ
からアンテオケにやって来た、あるキリスト教徒が、「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を
受けなければ、救われない」(行15・1)と、説いていたのです。
ダマスコ途上で、イエスとの遭遇という原体験を持ち、「イエスこそキリストである」というクレドーを形
成したパウロは、そのクレドーからのオリエンテーションにより、彼の新しい世界観・アイデンティティを
再構築していました。そのようなパウロにとって、救いは、「イエスをキリストと信じる」信仰にのみある
のであって、割礼は必要条件ではなくなっていたのです。
「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神
の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(ロマ3・23−24)
「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認
めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いよるのではなく、キリストを信
じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることが
ないからである。」(ガラ2・16)
このような「信仰義認」という立場に立つパウロにとっては、イエスをキリストと信じる信仰を持った異
邦人たちも、割礼を受けなければならないとする考え方は、まったくナンセンスだったのです。しかし、
人間はそう簡単には「呪術の園」(その社会の自明の現実)を突破することはできません。神によって選
別された「イスラエル民族に属する」ということを自分のアイデンティティーの中核にしているユダヤ人に
とっては、イエスをキリストと信じた後も、キリスト・イエスの十字架によるあがないは、神との旧い契約
関係への復帰を意味したにすぎなかったのです。したがって、彼らは、律法遵守は救いの必要条件で
あり、異邦人も割礼を受けなければならないと主張しました。
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