『二度生まれの男・パウロ物語』
ところで、当時、パリサイ派のユダヤ人は異邦人(ユダヤ人以外の民族に属する人)をユダヤ教徒に
改宗させることに熱心でした。そこで、各地のユダヤ人の会堂(シナゴーグ)には、ユダヤ教団準団員と
いった立場の異邦人も参集していました。彼らは三段階ぐらいの立場があったようですが、割礼も受
け、すべての儀礼的義務を引き受けた者は、完全な交わりの中に受け入れられ、彼の子孫は第三世代
において初めて完全資格あるユダヤ人と認められたのでした。
各地に散っていったキリスト教徒たちは、各地のシナゴーグで「キリスト・イエスのメッセージ」を宣べ伝
えましたが、それを聞いて受け入れたのは、ユダヤ人よりは準団員の異邦人たちの方が多かったよう
です。彼らにとっては、律法の遵守やとりわけ割礼を受けるということが、ユダヤ教への改宗の障害に
なっており、「キリスト・イエスのメッセージ」を受け入れやすい立場に立っていたのです。
このようなキリスト教への異邦人の改宗が目立ったのは、アンテオケ(アンティオキア)でした。そこ
で、イェルサレムの教会は、バルナバという人物をアンテオケに使わしました。彼は、パウロがイェルサ
レムに上ったときにパウロの世話をした人物です。バルナバは、アンテオケで異邦人改宗者たちの「イ
エスをキリストと信じる信仰」を確認すると、異邦人たちにさらに宣教するために、自分の協力者になっ
てもらおうと、パウロを探しにタルソに行き、アンテオケに連れて帰りました。このアンテオケで初めて、
クリスチャンという呼び方がされるようになったのです。この頃になると、キリスト教徒たちは、自分たち
の集会、つまり教会(エクレシア)を形成していました。そして、アンテオケの教会においてパウロとバル
ナバが対立することになり、その問題を解決するために、パウロとバルナバはイェルサレムに上り使徒
たちと協議することになったのです。このいわゆる「使徒会議」とその後の「アンテオケ事件」において、
パウロはまったくの孤立の内に自分の思想で立ち、古代社会の準拠枠を突破するのです。
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