『二度生まれの男・パウロ物語』


 そこで、いわゆる「使徒会議」と呼ばれる会議がイェルサレムで開かれました。パウロとイェルサレム

のユダヤ人キリスト教徒たちとの激しい争論がありました。その結果、パウロ的立場が受け入れられる

ことになったのです。なぜ、イェルサレムの指導者たちは、パウロの立場を認めたのでしょうか。その理

由は、M・ウェーバーが言っているように、使徒会議以前に、異教からの改宗者たちが、ユダヤ人キリス

ト教徒たちと同様に霊にとらえられている(彼らのキリスト教受容は、それまでの世界観・アイデンティテ

ィの崩壊を伴う人格変容であり、霊にとらえられるという現象は、そのプロセスにおける異常心理状態で

あったと考えられます)のを、ペテロが目撃しており、ペテロは彼らをキリスト教徒であると認めざるを得

なかったという事実(行10・44−48)が決定的です。それ故、ペテロがその体験からパウロの立場を弁

護したために、イェルサレムの指導者たちは、パウロの立場を承認せざるを得なかったのです。

 しかし、「使徒行伝」には、「使徒会議」において次のような妥協(使徒令)が成立したことが述べられ

ています。

 「そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけな

い。ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き

送ることにしたい。」(行15・19−20)

 そのような妥協が成立したことについて、パウロは何ら言及していません。また、「それ自体、汚れて

いるものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである」(ロマ14・14)

というパウロの言葉からして、彼がそのような妥協案を認めたというのは、極めて蓋然性が低いと言え

るでしょう。多分、その妥協案は、使徒会議が終了し、パウロがイェルサレムを去った後、パリサイ派か

らの改宗者たちから突き上げられたイェルサレムの指導者たちが、一方的に決定したものであると考え

られます。「使徒行伝」の記述は、事のいきさつを知らなかった「使徒行伝」の記者が、パウロとイェルサ

レムの指導者たちとの一致を強調するために記したものでしょう。そしてその後、パウロが、孤独の内

に、古代社会の準拠枠を突破する決定的な事件が起きます。いわゆる「アンテオケ事件」です。


       

      
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