『二度生まれの男・パウロ物語』


 「ところが、道を急いでダマスコの近くまできたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照らした。彼

は地に倒れたが、その時『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。そこ

で彼は『主よ、あなたは、どなたですか』と尋ねた。すると答えがあった、『わたしは、あなたが迫害して

いるイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告

げられるであろう』。サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞こえたが、だれも見え

なかった。サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手

を引いてダマスコへ連れて行った。彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかっ

た。」(行9・3-9)

 このイエスとの遭遇という体験は、パウロの<自己態勢>を破壊してしまいました。パウロの翻身に

ついての「使徒行伝」の記述は、回心についての当時の類型的な表象にしたがったものでしょう。しか

し、パウロが、「ガラテヤ人への手紙」において、神が直接「御子をわたしの内に啓示してくださった」

(ガラ1・16)と述べていることは、彼の主観的体験としては真実であったに違いありません。「使徒行

伝」の「三日間、目が見えなかった」という記述は、ある程度の真実を表していると思います。人間は、

言語によって、自然現象・社会現象を選択的・定型的に分節して世界を把握しています。そして、その

ようにして浮かび上がらせ、無自覚的に構成した自分の世界が、自分の外に客観的に存在していると

信じて生活しています。したがって、自分の世界が崩壊してしまうと、しばらくの間、自分の視神経に飛

び込んでくる刺激を秩序づけることができずに、見てはいるが意味あるものとしては見えない、という状

態が現出するのではないかと考えられます。

 このイエスとの遭遇という体験は、パウロの<自己態勢>を崩壊させるとともに、原体験として「イエ

スこそキリストである」というクレドー(思想の核となる信念)を形成させました。パウロは、このクレドー

を核にして、<再象徴化>(諸現象の再分節化、世界観・人生観・自然観・社会観・歴史観などの再構

築)を図っていくのです。(原体験やクレドーの概念を含む文化社会学の方法論については、佐々木斐

夫氏にその多くを負っています)


        

      
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