『二度生まれの男・パウロ物語』
モーセを通して神が定めたとされる律法およびその適用の仕方を、日常生活において厳格に守ること
は困難なことでした。まして、異教の人々との接触を余儀なくされるディアスポラのユダヤ人にとって
は、非常に困難なことでした。律法を厳格に守ることのできないイスラエルの民にとって、ヤハウェは恐
ろしい神でもありましたが、悔い改めて律法の道に戻るならば、その民を許す神でもありました。しか
し、律法への過剰同調の傾向を持つユダヤ人の家庭で育ったパウロは、常に、完全であることを求める
ように方向づけされていたと思われます。パウロは、「律法の義については落ち度のない者」として、そ
れに反する自分の衝動・欲望・欲求を、無自覚的に抑圧・解離し、律法を遵守しようと努めていました。
パウロは少年期を脱すると、さらに律法の知識を深めようとイェルサレムに留学し、高名なラビのもと
で熱心に律法を学びました。そして、彼がイェルサレムでの留学を終えようとしていた頃、ステパノの殉
教の場面に遭遇したのです。
ステパノはイエスを神の子と信じるキリスト教徒のうち、ギリシア語を話す、ヘレニストと呼ばれる人た
ちの指導者的存在でした。ヘレニストたちは律法や神殿に対して比較的自由な態度を取っていたので、
サドカイ派やパリサイ派のユダヤ人たちから、特に危険な存在として注目されるようになっていました。
そして、ついに、パリサイ派などのユダヤ人たちは、ステパノを虐殺してしまったのです。
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