『二度生まれの男・パウロ物語』
その後、ヘレニストたちはイェルサレムから逃亡して、各地に散っていきました。パウロにとって、彼ら
は、律法遵守のための抑圧で不安定になっていた彼の心の秩序を脅かす者たちでした。特にステパノ
の最期の言葉は、衝撃的にパウロの心に突き刺さったのではないかと思われます。ステパノは、「主
よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください」(行7・60)と言って死んでいったのです。この言葉は
パウロの<自己態勢>を激しく揺り動かしました。そして、心を震撼させるような不安がパウロを襲いま
した。パウロはその不安を打ち消すために、ヘレニストたちの存在そのものが許せなかったのです。彼
は、同士と共に彼らを追いました。
パウロのパーソナリティの分裂は、もう既に、耐えられるような状態ではなくなり、精神の緊張が異常
に高まっていったことでしょう。後にキリスト教徒へと翻身したパウロが、キリスト教徒としての立場か
ら、この当時の自分の内面を見つめて次のように言っています。
「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえっ
て自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良
いものである事を承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わた
しの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿ってい
ないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がな
いからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。も
し、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿って
いる罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見
る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があ
って、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをと
りこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、
わたしを救ってくれるのだろうか。」(ロマ7・15−24)
翻身以前のパウロが、無自覚的に、この内面の分裂からの救いを求めていたとはいえ、その分裂に
ついての認識は、翻身以後になされたものでした。ステパノの殉教に遭遇し、一瞬、ステパノの姿にイ
エスのイメージと「苦難のしもべ」のイメージを重ね合わせたとき、精神を震撼させるような不安が、パウ
ロの心を襲ったことでしょう。その体験は、彼が全身全霊をうちこんで守ってきた<自己>やその<自
己>が依拠している自分の世界(現実と信じて、これまで形成してきたパウロの私的幻想)を崩壊させ
かねない体験であったからです。
![]()
-14-