『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「それは違うと思う。仏教研究の専門家が、当時はそのようなことはあり得ないと言っている。鑑真

(がんじん)が戒律を伝えに来日したのが753年(天平勝宝5年)で、クーデターの年が764年(天平宝

字8年)だから、その頃は戒律への関心も深まっていた頃で、道鏡が触女人戒を犯した可能性は極

めて低いと思う。もし、道鏡がそれを犯していたとしたら、称徳天皇崩御後、下野国(しもつけのくに)

薬師寺に左遷だけではすまなかったと思う。」

 「そうすると、称徳天皇は、道鏡をほんとに信頼していたんだね。でも、宇佐八幡宮の最初の託宣を

確かめるために、勅使として和気清麻呂(わけのきよまろ)が派遣されたんでしょ。」

 「そうだね。そして、清麻呂は改めて託宣を受け、先の託宣は虚偽であったと復命したんだ。」

 「それって、ほんとにそんな託宣があったの?」

 「多分、藤原永手(ながて)や藤原百川(ももかわ)らの意向に沿ったものだったに違いない。清麻

呂の報告を聞いて、称徳天皇は怒りのあまり和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名

させ左遷している。

 しかし、これによって、道鏡への譲位はなくなり、天皇の支配の正当性の根拠は、天照大神に連な

る血統カリスマにあるということが確定的になったんだ。」

 「そのような重要な託宣を出した神社が、どうして宇佐八幡宮だったの?」

 
     

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