『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』
「それは事実だと思う。称徳天皇は、764年(天平宝字8年)9月に藤原仲麻呂を殺害すると、すぐに
道鏡を大臣禅師にしている。また翌月、淳仁天皇を廃位し事実上皇位に復帰すると、翌年には道鏡
を太政大臣禅師にしている。そして、その翌年には道鏡を法王に、道鏡の弟・弓削浄人(ゆげのきよ
ひと)を中納言にしている。
769年(神護景雲3年)には、太宰府の主神(かんづかさ)が『道鏡を皇位に就ければ天下は太平に
なる』という宇佐八幡宮の託宣を報じた。」
「それって、称徳天皇を忖度してのことだったの?」
「多分そうだったのだと思う。その頃は、唐の勢力が強く、仲麻呂にしても称徳天皇にしても、唐の
社会や文化を理想としていたんだ。だから、称徳天皇は、徳のある者が天命を受け権力者になると
いう、中国の権力正当化説を日本に取り入れたかったに違いない。藤原氏が傀儡(かいらい)の天皇
を立て、自分が実権を握る政治に疑問を持っていたんだろう。道鏡は僧なので、皇位を世襲するとい
うことはない。したがって、次の天皇も徳のある者に譲位され、そのような慣習が続いていって欲しい
と願ったのではないかと思う。」
「称徳天皇と道鏡が男女関係にあったというのは、ほんとなの?」
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