『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「孝謙天皇、道鏡について話す前に、不比等死後から彼らに至るまでの政界の流れを概観してみよ

う。

 不比等死後、長屋王(ながやおう)が王朝の実権を握った。彼は、天武天皇の皇子であった高市皇

子の息子なんだ。実は、長屋王の邸宅跡から木簡が見つかっており、それには長屋親王(ながやし

んのう)と書かれてあった。高市皇子は天皇にはならなかったので、親王という呼称は正式なもので

はなかったけれども、それだけの待遇を受ける実力者ではあったと思う。」

 「不比等には四人の子供がいたんでしょ。彼らはおとなしくしていたの?」

 「元正天皇から聖武天皇へと天皇位が譲位されると、不比等の息子・武智麻呂(むちまろ)ら四人

は、自分たちの異母妹で聖武天皇の妃になっていた光明子を皇后にしようとした。」

 「皇后は、天皇位に就くこともあるから、天皇の血筋の者でなければならなかったんでしょ。」

 「そうだね。長屋王は、そう主張して光明子が皇后になることには絶対反対だった。そこで、四人は

結束して陰謀を企み、長屋王に謀反の嫌疑を掛けて彼を自殺に追い込んだ。ところが、それから十

年も経たない間に四人とも病死してしまった。それは、長屋王の怨霊の祟りであると信じられたよう

で、その後、聖武天皇から孝謙天皇の中頃まで、橘諸兄(たちばなのもろえ)、吉備真備(きびのまき

び)などの藤原氏以外の人物たちが実権を握ることになる。」

 「藤原一族はどうやって巻き返しを図ったの?」

 
     

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