『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「聖武天皇というと、皇后・光明子の尻に敷かれた気弱な天皇というイメージがあると思うけど、

実際は、中国の皇帝のような権力を持ちたいと願い、強力な中央集権国家を目指した人らしいんだ。

 まず、平城京を捨て、首都機能を3つの都に分散しようとした。政治の中心都市・恭仁京(くにきょ

う)、経済の中心都市・難波宮(なにわのみや)、宗教の中心都市・紫香楽宮(しがらきのみや)の3都

市だ。でも、結局、貴族たちの抵抗に負けて平城京に戻ってしまった。日本は、やはり独裁的な権力

者を嫌うんだね。和を保ちながら、皆で話し合って物事を決めていきましょうという、聖徳太子以前か

らの文化的伝統が根強いんだ。責任ある立場の個人が、ある政策を決断・実行し、その結果につい

て責任を負うという体制を取ることは、結局できなかった。皆で話し合うことによって何となく合意の空

気を形成していき、合意した内容を実施した結果については誰も責任を取らないという、いわゆる、

天皇制無責任体制が出来上がっていった。そういった体制では、意識的に陰から合意の空気を作り

出していく人物が出ると、その人物が陰の実力者となっていくんだ。」

 「その典型が藤原一族ってわけでしょ。でも、聖武天皇は大仏造立にだけはこだわったんだよね。」

 「そうだね。それだけは貫いたんだ。彼は、紫香楽宮に造立予定であった大仏を平城京に造立す

る。大仏造立によって鎮護国家を図った。自然災害や疫病、社会の乱れなど悪いことはすべて、悪

霊・怨霊の仕業と信じられていたので、悪霊・怨霊封じに大仏造立だけは実現したかったのだと思

う。

 また、聖武天皇には娘が一人だけしかいなかった。それが後の孝謙(こうけん)天皇なんだけれど

も、聖武天皇はやはり男の子が欲しかったんだろうね。大仏にそのことも願ったことと思うよ。でも、

その願いは叶えることはできなかった。」

 「孝謙天皇というと、道鏡(どうきょう)という人物が思い起こされるけど、孝謙天皇と道鏡はどういう

関係だったの?」

 
     

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