『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「三千代は、軽皇子からだけではなく、持統天皇や軽皇子の母・安陪皇女(あべのひめみこ)からの

信頼も厚かった女性であり、後宮での有能なキャリアウーマンといったところかな。でも、彼女は、そ

の時30歳で3人の子持ちだった。当時としては、女の盛りは超えていると見なされても仕方のない年

齢だった。」

 「じゃ、やっぱり史に利用されただけの女性だったんじゃないの?」

 「いや、史は三千代に、理知的な大人の女性としての魅力を感じていたと思うよ。共に政治につい

て語れる同志的なパートナーになったんだと思う。そして、三千代は史のために、宮子の入内や宮子

が軽皇子の子を身ごもることに全力を傾けたに違いない。」

 「宮子は男の子を産んだの?」

 「宮子は男の子を産み、それが後の聖武(しょうむ)天皇なんだけれども、その前に、史には、やっ

ておかなければならないことがあった。それは、持統天皇の譲位により、軽皇子を天皇の位に就ける

ことだった。しかし、持統天皇は譲位に非常に不安を持っていたと思う。持統の原体験によるクレドー

が譲位をためらわせていたに違いない。自分の孫とはいえ、天皇でなくなることは、人間関係の質が

がらっと変わることであり、天皇であった時のアイデンティティが保てなくなるからね。」

 「史は、それに対してどう対処したの?」

 「持統の不安を和らげるために、太上天皇というポストを用意した。普段の政務は天皇が執り行う

が、国家の大事には若い天皇を指導する権威ある地位であると説得したのだろう。決定事項をひっく

り返す権限はないのだけれども、そこはうやむやにして、納得させたのだと思う。ついに持統は軽皇

子に譲位して、文武(もんむ)天皇の即位となった。

 そして、宮子が文武天皇との間に、後の聖武天皇を身ごもり、三千代も後の光明子を身ごもること

になる。また、史は、藤原の姓を自分の子孫だけが名乗れるようにして、自分の名前も藤原不比等

(ふじわらのふひと)と名乗るようになった。こうして、不比等は藤原一族繁栄の基盤を固めていった

んだ。」

 「奈良の大仏を造らせたのは、聖武天皇だよね。かなりの大事業となる大仏を造らせた理由は何だ

ったの?」

 
     

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