『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』
「史を近江の都から遠く離れた河内の飛鳥で養育させたのは、史が噂に惑わされずに成長するよう
にとの配慮だったに違いない。また、鎌足は、日本の社会も唐のように律令に基づく国にすべきだと
考えていたので、律令についても学識の深い渡来人系の田辺史大隅に養育を委ねたものと思われ
る。史が十七歳になるまで山科に住まわせるように厳命したのは、いずれ、大友皇子と大海人皇子
が対立するに違いないと考えていたからで、そのときは、山科から動かず中立でいろということだっ
たと思う。」
「壬申の乱では、中臣一族は大友皇子に味方して戦ったんだよね。」
「一人だけ大海人皇子に味方して戦った人物がいた。彼の他は皆、殺されるか天武朝の朝廷から
追放されてしまった。」
「大海人皇子・天武天皇は鎌足の息子・史を快く思っていなかったんでしょ。」
「大隅や史は、壬申の乱の時、中立であったと認められたけれども、限りなく近江朝寄りであったと
見なされていたと思う。だから、天武天皇は、史を自分の朝廷の官吏にすることは許さなかった。し
かし、天武朝と史の間には、つながりもあった。それは、史の異母妹二人が天武天皇の妃となってい
たことなんだ。彼女たちの母は、天智天皇の元恋人で、鎌足がもらい受けて妻にした女性で、史の母
の安見児とは違い、皇族出身と言われている。その関係が縁で、史は持統と接触はあったに違いな
い。
『日本書紀』には、天武天皇亡き後、持統が称制を始めて三年後、天皇に即位する前年の二月に
史が判事に任命されたことが記載されている。判事とは律令制定に携わる下級官人なんだ。また、
その頃は藤原姓を名乗ることも許されていたけれども、位階は貴族階級の最下位だった。」
「じゃ、史は突然、官人になったわけではないんだね。」
「そうだね。無位無官だったときも、持統の腹心の部下として、大津皇子(おおつのみこ)の謀反事
件や持統の天皇即位に暗躍していた可能性が高いと、私は考えている。」
「史は最初、貴族階級の最下位だったのに、なんで急に出世していったの?」
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