『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「そのことを理解するためには、持統の生い立ちを見てみる必要がある。」

 「持統って天智天皇の娘だったんでしょ。」

 「乙巳の変は、軽皇子擁立派のクーデターであり、中大兄皇子はその実行隊長であったという話は

前にしたよね。軽皇子擁立派の中心人物が二人いて、阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)と蘇我倉

山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)なんだけれども、中大兄皇子は乙巳の変の数年

前に石川麻呂の娘・遠智娘(おちのいらつめ)と結婚している。そしてできた娘が大田皇女(おおたの

ひめみこ)と鸕野皇女(うののひめみこ)で、鸕野皇女が後の持統天皇なんだ。彼女は乙巳の変の年

に生まれている。

 乙巳の変後、軽皇子が孝徳天皇として即位するが、あまり実力のない人で、豪族たちの支持はし

だいに中大兄皇子に集まりだした。しかし、中大兄皇子にとって目の上のたんこぶだったのが阿倍

倉梯麻呂と蘇我倉山田石川麻呂の二人だった。

 そして、649年に阿倍倉梯麻呂が亡くなると、ここがチャンスとばかりに石川麻呂を自死に追い込

み、部下にその首を切り取らせ、塩漬けにして自分の所に持ってこさせた。持統の母・遠智娘は父親

の無残な姿を見て発狂死してしまった。持統はまだ五歳だったので、そのときは事態をあまりよく理

解できなかっただろうけれども、しだいに理解できるようになると、権力闘争の恐ろしさを身をもって知

ったんだろうね。その体験が彼女の原体験になったと思う。権力闘争に負けたら大変なことになる。

権力を握ったら、絶対に手放してはいけない、ということが、彼女のクレドーになって、その後の彼女

の人間観、人生観、世界観が形成されていったに違いない。だから、天武天皇亡き後、皇后の称制

という立場で権力を握り、息子の草壁皇子(くさかべのみこ)が亡くなると、自分が天皇になり、自分

の孫を次の天皇にしたんだ。」

 「天武天皇の息子たちがいっぱいいたのに、そんなことが彼女一人でよくできたね。」

 「やはり、一人では無理だったろうね。頭脳明晰で学識があり、しかも胆力のある信頼できる腹心の

部下が必要だったと思うよ。」

 「そのような期待に応えられる人物って、持統天皇の周りにいたの?」


     

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