『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』
「彼ら兄弟のお母さんは、皇極天皇、重祚して斉明天皇だけれども、彼女が舒明天皇と結婚したの
は再婚だった。彼女は、舒明天皇と再婚する前、用明天皇の孫にあたる高向王(たかむくおう)と結
婚し、漢皇子(あやのみこ)をもうけていた。この漢皇子が大海人皇子だったと思う。」
「『日本書紀』は、なぜ事実を曲げて、大海人皇子が舒明と皇極の子で、天智天皇の弟であるとし
たの?」
「実は、高向王や漢皇子に関しては、詳細は不明なんだ。つまり、皇極天皇は皇統から少し離れて
しまっていた女性で、初婚の相手は、用明天皇の孫の高向王ではなくて、新羅系の渡来人であった
可能性が高い。したがって、本来、大海人皇子は天皇になれるような立場ではなかった。そして、天
皇家の菩提寺とされる泉涌寺(せんにゅうじ)には、歴代天皇の位牌が安置されているのだけれど
も、天武系の天皇の位牌は除外されている。天皇家の血筋ではないということが、認識されていたん
だと思う。また、天智天皇死後、息子の大友皇子(おおとものみこ)は、即位していた可能性が高
い。」
「じゃ、壬申の乱は天皇候補者である二人の皇子が、皇位を争った事件ではなく、大海人皇子によ
るクーデターだったの?それがなぜ成功したの?」
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