『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「もちろん、勝算があってやったことだと思う。実は、白村江の戦いは、唐に物量で圧倒されて大敗

したわけではない。兵員は日本の方が多かったんだ。

 中大兄皇子が恐れていたのは、百済・高句麗が滅ぼされた後、新羅も滅ぼされて朝鮮半島が唐の

領土になってしまうと、次に狙われるのは日本だということなんだ。だから、援軍を送って百済を再興

させ、日本が百済の宗主国となり、朝鮮半島を唐に対する緩衝地帯とする、という構想だったと思

う。」

 「じゃ、どうして大敗したの?」

 「第一に、日本の船に問題があった。『旧唐書(くとうじょ)』によれば、日本側は400艘、唐側は

170艘の船とある。数では日本の方が圧倒していた。しかし、その頃の日本の船は、船の背骨ともい

うべき竜骨のない船だった。日本は造船技術が遅れていたんだね。また、数では上回っていても寄

せ集めの軍で、指揮系統も定まっていなかったらしい。

 もう一つは、余豊璋と鬼室福信の確執が挙げられる。余豊璋は人質として30年近くを日本で過ごし

ている。この二人の文化的な背景の差が確執をもたらした大きな原因であったと思う。余豊璋が、有

能な将軍であった鬼室福信を使いこなすだけの度量のある人物であったなら、百済側が勝利した可

能性もあったと思う。しかし、余豊璋は鬼室福信を殺害してしまう。そのようなことで、唐・新羅連合軍

に大敗してしまったんだ。」

 「その後、どうして唐は日本に攻めてこなかったの?」


     

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