『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「斉明天皇は百済救援戦争に際して、高齢になっていたにもかかわらず陣頭指揮をとり、北九州ま

で出向いていた。多分、この戦争の勝利を花道として、中大兄皇子に譲位しようと考えていたんだろ

うと思う。しかし、彼女は661年7月24日に突然倒れ、帰らぬ人になってしまった。

 中大兄皇子は斉明天皇からの譲位という道を失ってしまい、即位の正当性を失ってしまった。百済

救援戦争の指揮で忙殺されていたということはあったにしても、時間的には即位も可能だったが、彼

はあえて、豪族たちを納得させるだけの正当な道を踏んで即位しようと考えたのだと思う。

 そして、663年の白村江(はくそんこう)の戦いの大敗後、孝徳天皇の皇后だった間人皇女が665年

に亡くなり667年に間人皇女の亡骸を母・斉明と合葬して、葬礼を完了した翌年、その葬礼を主催す

ることにより正当性を得たということで、中大兄皇子は天皇に即位したんだ。」

 「斉明天皇や中大兄皇子は、なぜあんなにも強大な唐帝国との戦争を決断したの?」


     

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