『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「いや、そうではないと思う。遠山美都男(とおやまみつお)氏が言っているように、乙巳の変は軽皇

子を中心とした、軽皇子擁立派のクーデターであり、中大兄皇子はその実行隊長であったのだと思

う。中大兄皇子は当時19歳であり、年齢的にも世代的にも天皇に即位するにはふさわしくなかった。

 そもそも、山背大兄王襲撃も入鹿の単独行動ではなく、軽皇子擁立派との共同行動だった。推古

天皇の時代、譲位という慣習がなかったために、次の世代の天皇候補者たちが皆、先に亡くなってし

まうという事態になってしまった轍を踏まないように、皇極天皇の時は、しかるべき時にしかるべき人

物に譲位することが定まりつつあった。そして、譲位候補者の筆頭にいた山背大兄王が除かれてし

まった。そして、軽皇子擁立派が古人大兄皇子を推す蘇我入鹿を暗殺し、蘇我本宗家を倒したクー

デターが乙巳の変だった。

 また、それは、唐の勃興という東アジア情勢を背景にして、天皇を中心とした中央集権国家の樹立

をもくろむ中大兄皇子が、それを阻んでいた蝦夷・入鹿を打倒したクーデターであったというのも、違

うと思うね。蝦夷・入鹿らは自らが天皇位を奪おうとは思っていなかった。天皇の外戚という立場で実

権を握り、天皇の血統カリスマを利用しながら、やはり、中央集権化を目指していたんだと思う。しか

し、軽皇子擁立派が先制攻撃で蘇我本宗家を打倒してしまったんだ。」

 「軽皇子が皇極天皇からの譲位によって、孝徳天皇として即位後に出された大化改新(たいかの

かいしん)の詔(みことのり)は、後世の作という説もあるようだけれども、その点は爺ちゃんはどう考

えているの?また、孝徳天皇の死後、中大兄皇子が天皇にならずに皇極天皇が重祚(ちょうそ)した

のはどうしてなの?」


     

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