『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』
「推古天皇が病死したとき、推古天皇の次の世代の天皇候補者たちが、聖徳太子など皆亡くなって
しまっていた。したがって、さらに次の世代が候補者になるわけだけれども、その有力な候補者が二
人いた。その二人とは、山背大兄王と、蘇我蝦夷が擁立する田村皇子(たむらのみこ)で、彼らが皇
位を争うことになる。結局、山背大兄王を推す蘇我一族の堺部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)を
蝦夷が殺害することにより、田村皇子が即位し舒明(じょめい)天皇となる。この事件は、天皇位継承
をめぐる紛争であると同時に、蘇我氏内部の権力争いでもあった。
そして、舒明天皇死後、再び天皇擁立をめぐる紛争が起きそうになった。候補者は、山背大兄王、
軽皇子(かるのみこ)、さらに次の世代の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)、古人大兄皇子(ふるひ
とのおおえのみこ)などだ。その頃、蘇我氏の実権は蝦夷の息子の入鹿に移っていた。入鹿は、自
分の意のままになりそうな古人大兄皇子の擁立を考えており、そのつなぎとして、舒明天皇の皇后で
あった皇極(こうぎょく)天皇を擁立した。そして、皇極即位の翌年、入鹿は、古人大兄皇子擁立に邪
魔者となった山背大兄王を襲撃し、聖徳太子の一族は皆、首をくくって自害し全滅したんだ。」
「この頃、天皇という呼称は、もう既にあったの?」
「天皇という呼称は天武天皇のあたりからで、その頃は大王(おおきみ)という呼称だった。一応、
便宜的にこの頃の大王も天皇と呼んでいるけれども、何々天皇というのは、諡(おくりな)と言って、
死後に贈られたものなんだ。」
「分かった。山背大兄王に戻るけど、山背大兄王は入鹿に襲撃された時、あえて戦わなかったんで
しょ。それはどうしてなの?」
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