『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「聖徳太子の祖父にあたる欽明天皇が、亡くなる直前に息子の敏達天皇に『汝は新羅を討って任

那を回復せよ』と手を取って言ったということが『日本書紀』に載っている。それ以来、任那奪還は天

皇家の家訓として残り、敏達・用明の弟である崇峻天皇の時、2万の軍勢が筑紫に集結したんだが、

崇峻天皇が暗殺されてしまったために、この軍勢は海を渡ることがなかった。

 そして、聖徳太子は摂政として、実の弟などを新羅討伐の将軍に任じ、2万5千の兵を与え任那を奪

還しようとしたんだが、その実の弟が亡くなってしまうなど不幸が重なり、実行することができなかっ

た。」

 「天皇家は、どうしてそんなに任那奪還にこだわったの?」

 「一つは鉄鋌の確保のため、もう一つは、天皇家のルーツが任那すなわち日本<ヤマト>国だった

からだよ。」

 「じゃ、聖徳太子は任那を奪還しようとするほど血気盛んな若者だったので、中華思想の隋に対し

て、無謀にもあんな生意気な対等の国書を作成したというわけなの?」

 「いや、彼には有能なブレーンがいた。高句麗出身の恵慈法師(えじほうし)という人だ。恵慈法師

は、当時の東アジア情勢を聖徳太子に教えていたに違いない。当時の隋は、大運河の建設や高句

麗への出兵の失敗などで国力が疲弊していた。そして、日本に侵攻するには海を渡らなければなら

ず、そのこと自体が難事業であったし、その前に、朝鮮半島を征服しなければならない。それが不可

能な状態だった。それらの情勢を踏まえた上での、あの国書だったと思う。」

 「その後、十七条の憲法作成の頃になると、聖徳太子も角が取れて丸くなっちゃったというわけな

の?」


     

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