『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「推古天皇が即位した後に竹田皇子が亡くなってしまった。そうなると、推古天皇にとって一番近い

身内は、甥の聖徳太子ということになる。聖徳太子伝説における超人的イメージは実像ではないと思

うけれども、人並み以上に優秀であったことは事実であったと思う。推古天皇は次の天皇にと考えて

いたに違いない。そこで、摂政に任命したのだけれども、推古天皇はたまたま長寿だった。当時の天

皇は、生前に譲位するという慣習がなかったので、聖徳太子の方が先に亡くなってしまい、天皇にな

ることができなかったというわけだよ。」

 「聖徳太子というと、『和』を大切にする人というイメージが強いよね。なのに、どうして隋の煬帝(よ

うだい)を怒らせてしまうことが明らかな国書を小野妹子(おののいもこ)に持たせたの?」

 「聖徳太子はもともと武闘派だった。蘇我馬子とともに物部守屋(もりや)と戦ったし、摂政になって

からは、何度も朝鮮半島に出兵しようとした。」

 「どうして、朝鮮半島に出兵しようとしたの?」


     

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