『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』
「いや、一気に攻め込むには、リスクが大きすぎたんだ。まず、最高首長の出雲氏と連合している
豪族たちを敵に回したくないという思惑があったに違いない。それに、奈良盆地は山々に囲まれた天
然の要塞であり、攻め込んで勝利したとしても、犠牲が大きすぎる。そこで、天皇家や物部氏、大伴
氏、中臣氏などは、河内、南摂津を基地として選び、そこを地盤として勢力を拡大していくという戦略
を取った。そして、応神天皇陵として、大規模な前方後円墳を造って勢力を誇示し、精神的に威圧す
る神経戦に持ち込んだ。それは、仁徳、履中と続いた。その間、蘇我氏がイズモ政権の豪族たちの
調停工作や出雲氏の国譲りの説得を行ったのではないかと思う。
履中天皇か反正(はんぜい)天皇のあたりで、豪族たちが寝返り、出雲氏はやむを得ず、国譲りの
説得に応じたのではないかと思う。その後の天皇家の出雲神の祟りに対する強烈な恐怖心をみる
と、多分、だまし討ちにして殺害したか、自殺に追い込んだものと思われる。祟りを恐れるのは、恐れ
る側が心にやましさを感じているからなんだ。
井沢元彦氏は、『出雲大社は霊魂の牢獄である』と言っている。つまり、大国主命御神座(ごしん
ざ)は西を向いており、それを監視するかのように、『古事記』に出てくる高御産巣日神(たかみむす
ひのかみ)、『日本書紀』では高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と表記されているけれども、それ
らの五柱の天孫系の神々が南面しているという配置になっている。そして、出雲大社の参拝者は、実
際は天孫系の神々を参拝しているということになるんだ。
また、天皇家がいかに出雲神の祟りを恐れていたかは、出雲大社の大きさからも窺われる。それ
は、東大寺や御所よりも大きかったらしい。2000年(平成12年)4月の出雲大社の発掘調査で、それ
を裏づけるような発見があった。なんと、1本の柱材の太さが1メートル35センチで、これが3本組み合
わされてあり、直径3メートルに達する巨大柱の跡が見つかったんだ。
不比等は、そのような4世紀の歴史を熟知していたからこそ、出雲氏の国譲りの歴史を、あえて神
代の神話にすり替えて、うやむやにしようとしたのだと考えられる。」
「そうすると、神代から4~5世紀頃までの『日本書紀』の記述は、不比等によるかなりの歴史改竄・
捏造があったということなの?」
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