『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』
「成功したのだと考えられる。266年に、『倭の女王が、使を西晋に派遣し朝貢した』ということが、
『晋書』に記載されている。この女王とはヤマト国の臺与(とよ)であったと思う。その頃、御間城入彦
<崇神天皇>は、多分亡くなっていて、垂仁(すいにん)天皇か景行(けいこう)天皇あたりが臺与を
女王として立て、北九州の豪族たちを統合して、北九州にヤマト政権を樹立していたんだ。しかし、そ
の頃、畿内ではキビ政権が成立していたと考えられる。」
「キビ政権なんて初めて聞いたよ。どうしてそういうことが言えるの?」
「吉備地方とは、今の岡山県あたりなんだけれども、そこにある造山(つくりやま)古墳は全国で第
4位の規模を持つ前方後円墳なんだ。つまり、吉備地方にかなりの勢力を持った豪族が存在していた
というわけだよ。また、埴輪の起源は、吉備地方の弥生後期の墳丘墓にみられる特殊壺・特殊器台
であると考えられている。そして、纏向(まきむく)遺跡・石塚古墳の周濠からは、吉備系の祭祀遺物
である孤文円板(こもんえんばん)が出土しており、纒向川の跡ではないかとされる運河状の構造物
からは、吉備系の特殊器台が出土している。そういったことから、奈良盆地にできた豪族連合の最高
首長は吉備氏であった可能性が高い。したがって、古墳時代前期の、最古の前方後円墳とされる箸
墓(はしはか)古墳は吉備氏の墳墓であると私は考えている。」
「吉備氏はどうしてそんな勢力を持つことができたの?」
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