『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「実は、西都原古墳群は、かつて発掘調査が行われている。1912年(明治45年)、当時宮崎県知

事だった有吉忠一(ありよしちゅういち)が宮内省に申請して発掘調査の許可を得て、1912年(大正

元年)12月から1917年(大正6年)1月までに数次にわたって発掘調査が行われた。その時のスタッ

フに、考古学者や民俗学者らと共に、東大の黒板勝美(くろいたかつみ、国史)、当時東大講師の今

西龍(いまにしりゅう、朝鮮史)らが参加している。そして、調査が一段落すると、これらの古墳は宮

内省の手によって封鎖され、現在に至っている。」

 「その調査で、どんなことが分かったの?」

 「その報告では、男狭穂塚が前方後円墳の変種の柄鏡式古墳であり、古墳時代のものであるとい

うことになっている。」

 「じゃ、男狭穂塚は、卑弥呼の墓ではなかったんだね。だって、卑弥呼は弥生時代の人だものね。」

 「ところが、さっきちょっと話したように、もともとは円墳だったものを、後から柄の部分を付け足した

ものであることが分かっている。1867年(慶応3年)に著された『日向纂記(ひゅうがさんき)』による

と、男狭穂塚には柄などなかったと記されているそうだ。そして、1922年(大正11年)に発足した朝

鮮史編纂委員会の委員長に、当時、朝鮮総督府の政務総監になっていた有吉忠一が就任してい

る。彼は、その委員会のスタッフに、黒板勝美と今西龍も嘱託および委員として参加させている。佐

治芳彦氏は、彼らの行ったことは『日本書紀』に合わせて朝鮮史を作り替えることだったと言ってい

る。」

 「彼らはどうしてそんなことをしたの?」


     

       -54-

 MENUに戻る