『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「『魏志倭人伝』は、晋の陳寿(ちんじゅ)が魏の帯方郡属官・張政(ちょうせい)の報告を元に記述

したものだけれども、『三国志』の中の『魏志』の最後に記されたものなんだ。『三国志』は晋の正当性

主張するために書かれている。従って、邪馬台国の位置について正確に記述する必要はなかった。邪

馬台国が魏に朝貢しに来たとき、魏の実権を握っていたのは、晋の初代皇帝・司馬炎の祖父の司馬懿

だった。そこで、司馬懿を持ち上げるために邪馬台国という南海の果ての国がはるばる魏に朝貢しにや

って来たと書いたわけだ。だから、方向は東ではなく南と書いたのは間違いというわけではなかったと

思う。」

 「そうか、そうだとすると、卑弥呼の墓は西都原古墳群にあるというわけだね。」

 「私は、西都原古墳群の男狭穂塚(おさほづか)が卑弥呼の墓であろうと考えている。男狭穂塚は

柄鏡のような形をしているけれども、柄の部分は後から誰かが付け足したものであることが分かって

いる。もともとは円墳だったんだ。そして、卑弥呼の死因は病死ではなく殺害されたのであろうと、私

は考えている。」

 「えっ、なんで殺されたの?」


     

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