『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「江上波夫氏によれば、『旧唐書(くとうじょ)』〔東夷伝(とういでん)〕〔日本国の伝〕の『日本国は倭

国之別種也』『日本旧(も)と小国、倭国之地を併(あわ)す』という記述は、半島南部に進出した辰王

家が弁韓地域にいた倭人を統合して日本<ヤマト>国を形成し、北九州の小国を征服したということ

を意味しているという。私もそうではないかと考えている。でも、征服はそう簡単にはいかなかった。

なぜかというと、朝鮮半島から北方系モンゴロイドの農耕民が渡来するようになってから500年以上

が経過しており、北九州にあった当時の諸小国はそれなりに強力な軍事力を持っていたからだ。ま

た、騎馬民族は、戦士はすべて騎兵であり、一人一人が複数の馬を所有して戦うのが普通で、それ

ゆえに比類のない強さを発揮したのだけれども、船に乗せて、北九州に多数の馬を連れて行くことは

不可能だったので、その強みを遺憾なく発揮することができなかったんだと思う。」

 「そうか、だから戦乱が長引いたんだね。」

 「佐治芳彦氏によれば、古代朝鮮の史書である『桓檀古記(かんだんこき)』の〔大震国本紀(だい

しんこくほんぎ)〕に辰王家の王子・依羅(いり)という人物が記述されているけれども、彼が伊都国を

征服し、伊都国王になったのではないか、そして、弁韓の日本<ヤマト>国が形成された地域を

任那(みまな)というが、ミマとは王という意味であり、任那のナは国という意味で、王の城からやって

来た依羅王子が御間城入彦(みまきいりひこ)であり、彼が『日本書紀』でいう崇神(すじん)天皇であ

ったという。

 崇神天皇は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)と言い、御肇国天皇

(はつくにしらすすめらみこと)という称号も与えられている。つまり、日本列島における、日本<ヤマ

ト>王朝の初代天皇であったと、私も考えている。ただ、天皇という称号は、天武天皇あたりから用

いられたもので、当時は大王(おおきみ)と呼ばれていた。」

 「倭の大乱は、卑弥呼(ひみこ)を女王に共立することによって収まるんでしょ。崇神天皇と卑弥呼

はどういう関係だったの?」


     

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