『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「これから話すことは、江上波夫(えがみなみお)氏や佐治芳彦(さじよしひこ)氏、井沢元彦(いざ

わもとひこ)氏の説などを参考にしながら、私なりに推理した仮説なんだ。まず、どうして倭人と呼ば

れるようになったのかは、多分、中国に朝貢に行った日本人が、中国の役人に『お前たちの国の名

は?』と聞かれて、環濠集落のイメージから『ワ』と答えたんではないかと思う。ワは輪であり、サーク

ルつまり仲間だね。そしてそれは和でもあったんだ。朝鮮半島から渡来人がやって来て以来、水田

が大幅に増え人口も爆発的に増えたのだけれども、縄文人の心優しき文化は中期の弥生人にも大

きな影響を与えていたのだと思う。その『ワ』という発音を聞いて、中国の役人が倭という字を当てた

んだ。中国は周囲の国の名にあまりいい字は使わない。倭という字には小人(こびと)という意味が

ある。

 それから、2世紀頃の倭国の大乱の原因だけれども、まず、その頃、後漢王朝の勢力が弱まってき

たことが挙げられる。つまり、それによって、中国王朝から倭の王として認証してもらい、中国王朝の

後ろ盾により小国連合の最高首長として君臨するというやり方ができなくなってしまい、小国同士の

争いが収まらなくなってきた。そして、気候の変化も関係している。紀元2世紀頃は、小氷期と呼ばれ

るほどにアジアも地中海地域も寒冷化が進んだことが確認されている。東アジアでは、半猟半農の

騎馬民族である夫余本族(ふよほんぞく)が温暖な地を求めて朝鮮半島方面に南下してきた。そし

て、その一族が朝鮮半島北部に高句麗(こうくり)を建国し、さらにその一族の辰王家(しんおうけ)が

半島南部に進出していった。当時、半島南部は、馬韓(ばかん)・弁韓(べんかん)・辰韓(しんかん)

の三韓時代で、弁韓には倭人が多数進出していたんだけれども、辰王家はそれらの倭人も統合し

て、弁韓の地の一地域に日本<ヤマト>という小国を形成した。そして、その日本<ヤマト>が北九

州に進出し、伊都国(いとこく)を征服したことが、倭国の大乱の原因だと考えられる。」

 「えっ、日本って最初は朝鮮半島にあったの?」


     

       -43-

 MENUに戻る