『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』
「さっき話したように、日本列島に水稲耕作が伝わったのは、紀元前1千年頃らしい。長江下流域の
農耕民が九州南部に渡来して伝えたんだと思うよ。彼らは縄文人と同じ南方系の古モンゴロイドだっ
たので、食糧が不足気味になっていた西日本の縄文人は、それほど抵抗なく水稲耕作文化を受け入
れていったんだと思う。水稲耕作文化は鉄器・青銅器も同時に日本列島にもたらしたんだけれども、
彼らの製鉄技術はレベルが低かったので、水田も低湿地にしか作ることができず、爆発的に人口が
増えることはなかった。したがって、縄文人と渡来人の混血である初期の弥生人は、縄文人の文化
的影響がかなり大きかったと考えられる。つまり、縄文人の心優しきエートスが、互いの善良さを信
じ、和を大切にするという日本人の精神構造の基層を形成していったんだと思う。」
「じゃ、あまり武力的な衝突もなく水稲耕作文化が広まっていったんだね。」
「そうだと思うよ。そして、紀元前500年頃、朝鮮半島から、北方系である新モンゴロイドの農耕民が
北九州に渡来してきた。彼らの製鉄技術は高度なものになっていて、武器も鉄製であり、農耕具も鉄
製のものも使われたので、初期の弥生人の集落を征服し、また、灌漑工事によって水田を大幅に増
やしていった。紀元前2世紀頃までには、水稲耕作は東日本にまで広がっていった。そして、生産性
が向上し、生産物の蓄積が進むと貧富の差が生じてきて、支配・被支配の関係が生じ、敵の襲撃か
ら自分たちを守るために周りに濠(ほり)をめぐらした環濠集落(かんごうしゅうらく)ができ、クニが形
成されていった。」
「紀元前後頃、中国では日本人のことを倭人と呼んでいるよね。どうして倭人と呼ぶようになった
の?また、2世紀頃に倭国で大乱があったと、中国の歴史書に書いてあるよね。その原因は何だっ
たの?」
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