『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』
「縄文時代は中期が最盛期で、人口も約20万人くらいいたのではないかと言われているんだけれ
ども、その後、寒冷化が進み、縄文後期には食糧が不足気味になり、人口も減っていった。寒冷化に
伴い海水面が下がり、以前は貝がよく採れていたところが陸地になってしまい、貝があまり採れなく
なってきたり、木の実が少なくなってきて、それに伴い小動物も少なくなっていった。その影響は西日
本の方が大きく、人口も減少していったらしい。そして、縄文晩期に長江下流域地方から水稲耕作農
耕民が渡来してきた時、縄文人に免疫のない感染症も日本列島に持ち込まれ、西日本の縄文人の
人口は激減したらしい。
したがって、西日本の縄文人は水稲耕作文化を受け入れざるを得なかったんだろうね。また、さっ
き話したように、それを受け入れ学ぶことができるだけの農耕技術は既に持っていた。
受け入れを拒絶した縄文人は、彼らの心優しきエートスゆえに、徹底抗戦という道は選ばずに、山
の民になっていくか、東日本の方へ移住していったと思うよ。水稲耕作文化を受け入れた縄文人は、
渡来人と混血していったんだけれども、文化的には、表層は渡来人の文化だけれども、基層は縄文
人の文化が継承され、新たな弥生文化が形成されていったんだと思う。そして、死や血を穢れと考える
傾向は弥生時代から始まるんだ。」
「弥生時代初期に、水稲耕作文化がどのようにして日本列島に普及していったの?」
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