『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』

 「人格は、その人にとっての重要人物たちとの関係を通して形成されたものなので、

大人になってからも人間関係を通してアイデンティフィケーションをしていく必要があるんだ。

でも、アイデンティフィケーションの相手の人格も不安定なものにすぎないので、共倒れに

なってしまう危険性をはらんでいるわけだ。」

 「そうか、キリスト教の神の人格は不変で絶対的なものなので、神との関係において

アイデンティフィケーションを行えば、人格が安定するというわけだね。

まさに、キリスト教の神は究極のフェティシズムの対象とも言えるんじゃないの。

手放そうと思ったら、大変な不安に襲われるだろうね。」

 「そうだね。人類が類人猿から進化していったとき、何故、他の動物にはない人格というものを

持つ必要があったと思う?」

 「それは、多分、社会生活を営むようになったとき、それぞれが勝手なことをしていたら、

秩序が乱れ集団が崩壊してしまうので、禁止事項などを設けて集団のルールを子どもたちに

教えていく必要があったからじゃない。」

 「そうだね。人類が本能的な行動の仕方を失っていったとき、非常に多様な行動の仕方が

可能だった。そして、生存に有利な行動の仕方を形成した集団が生き残っていったんだと思う。

つまり、その特定の部族や民族の行動の仕方・生活の仕方がその部族や民族の文化であり、

その文化の根拠は神に置かれていたんだ。人間は必ず特定の社会の中に生まれ、

その社会に固有の文化を自明の現実として内面化することによって社会化され、

その社会の人間となっていくんだ。しかし、その過程でその文化の自明性が疑問視されるようなとき、

伝家の宝刀は『神が決めたことだ。だから従え。神が見ているぞ。』というメッセージなんだ。」

 「ローマの神々なんかも、それぞれがキリスト教の神のような人格神だったの?」


  

(2018/11/6)

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