『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「浅見絅斎は、徳川家は簒臣なので、徳川家を倒して天皇の支配に戻すべきだと主張した。

 そして、そのための、規範とすべき典型的な殉教者的中国人八人について記したのが『靖献遺言』な

んだ。」

 「八人の中国人ってどんな人たちなの?」

 「それは、屈原(くつげん)、諸葛孔明(しょかつこうめい)、陶潜(とうせん)、顔真卿(がんしんけい)、

文天祥(ぶんてんしょう)、謝枋得(しゃぼうとく)、劉因(りゅういん)、方孝孺(ほうこうじゅ)の八人なん

だ。諸葛孔明は知っているよね。彼ら八人のうち、重要な人物は謝枋得と方孝孺の二人なので、その

二人について見ていくことにするね。

 謝枋得は、南宋末期の政治家・儒学者で、元のフビライ・ハーンの招致を断り、絶食して死亡してしま

った。

 方孝孺は、明初期の儒学者で、明の二代目皇帝・建文帝(けんぶんてい)の側近として国政改革に従

事していた。建文帝の叔父・永楽帝(えいらくてい)がクーデター<靖難(せいなん)の変>を起こし皇帝

になると、永楽帝は方孝孺に即位の詔を書くように要請し、懇願した。ところが、方孝孺はそれを断固

拒否した。怒った永楽帝は、本人だけでなく一族数百人を処刑した。

 このように、二人とも、朱子学的正統を守るためには、命を惜しまなかった。」

 「不惜身命(ふしゃくしんみょう)だね。」

 「そうだね。吉田松陰(よしだしょういん)もこの本を愛読書としていた。不惜身命の心意気で、日本化

された朱子学的正統を守ろうという情熱と日本的心情倫理が結びついて、尊王攘夷をスローガンとする

倒幕のテロリストが多数出現したんだ。

 当時の国際状況を見ると、開国はやむを得ない選択だったのだけれども、日本的心情倫理で行動す

る勤王の志士にとっては、開国は命に代えても許すことができないことだった。

 孝明(こうめい)天皇は、徳川慶喜(よしのぶ)の尽力によって、1865年(慶応元年)に開国の条約に

勅許を出した。それでも、勤王の志士の多くは、攘夷運動をやめなかった。つまり、彼らにとって重要な

のは、天皇自身の意思ではなく、自分個人の心情なんだ。自分の心の純粋さが、行動の結果に対する

免罪符となっている。

 同じような行動様式は、五・一五事件や二・二六事件の青年将校たちにも見られる。彼らは、自分の

私心のなさ、心の純粋さを免罪符としているようだが、私心がないどころか、自分の心に描いた天皇像

と同一化した、肥大化した自己に忠実であろうとしただけであると思われる。」

 「じゃ、なぜ、幕府を倒して政権を取った明治政府が開国政策を採ったの?」


 
     

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