『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「幕末、浅見絅斎(あさみけいさい)が書いた『靖献遺言(せいけんいげん)』が広く読まれるように

なり、尊王攘夷が常識となっていた。そのような時、島津斉彬は、今の日本の軍事力では攘夷は無

謀であり、国を滅ぼしかねないと思っていた。天皇の下に、徳川家も含めた雄藩が連合し、挙国一致

体制を作って軍事力を強化していかなければならないと考えていた。そのためには、開国し、欧米列

強の科学技術を学び、富国強兵を推進していかなければならないと考えた。そして彼は、まず薩摩藩

でそれを実践して見せたんだ。反射炉を築造して鉄製の大砲を造り、製鉄所や西洋式紡績工場を建

設して、薩摩藩の富国強兵を目指した。ところが、彼は1858年(安政5年)に急死してしまい、次の藩

主は異母弟の島津久光(ひさみつ)の息子が就任し、藩主の父として久光が薩摩藩の実権を握った

んだ。」

 「浅見絅斎の『靖献遺言』ってどんな内容なの?」

 
     

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