『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「いや、隠居したのはむしろ、改革をさらに推し進めるためだった。隠居すれば、参勤交代で江戸に

行くこともなくなるし藩内を自由に歩き回れるから、改革を効率よく進めることができると考えたんだと

思う。」

 「鷹山は何をしたの?」

 「上書箱という目安箱を設けて、藩士だけではなく一般庶民にも改革の意見書を求めた。そして、意

見書の一つに、養蚕に力を入れて、藩士だけでなく農民や商人、職人など藩を挙げて商品開発に取

り組むべきだという意見があった。鷹山はその意見を採用し、『養蚕役局』を再興し、藩を挙げて養蚕

に取り組むことにしたんだ。

 まず、158万本の桑の苗木を領民に無料配布し、蚕の飼い方マニュアルを作成して領民に配った。

生糸の生産を担ったのが藩士の妻や娘たちで、その先頭に立ったのが側室のお豊(とよ)の方だっ

た。」

 「お豊の方ってどういう人だったの?」

 「お豊の方は、鷹山より10歳年上の姉さん女房で、鷹山は彼女を信頼していたらしい。生糸の生産

や絹織物の織り方の開発などを彼女に任せたんだ。彼女は武士の妻や娘たちの先頭に立って織り

方を開発し、『米沢織』というブランドを立ち上げることに成功する。それが江戸で珍重され、米沢藩

の財政はしだいに良くなっていった。

 また、農民たちの農閑期における仕事として、『お鷹ぽっぽ(木彫りの置物)』の生産販売を奨励し

ている。そして、鷹山は、『看病断(かんびょうことわり)』という介護休暇制度を定めている。庶民に

おいても、家族が面倒を見られない場合は、近隣所で助け合う制度も制定し、高齢になっても安心し

て生活できる社会作りを目指したんだ。

 鷹山は72歳で死去したんだけれども、その数年後、借財は完済され、まもなく5千両も蓄えるまでに

なった。」

 「米沢藩以外に、藩政改革に成功した藩はなかったの?」

 
     

       -155-

 MENUに戻る