『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「鷹山は、まず『大倹約令』を発布して、自らが率先して生活水準を落とした。食事は一汁一菜にし

て絹の服から木綿の服に変え、奥女中や使用人を減らして藩主の生活費を年間1500両から209両

に減らした。

 小藩から来た養子の殿は上杉家の家格を知らない、と批判する者もいたけれども、鷹山は21歳の

時、本格的な改革を始める。『会計一円帳』を作成して、一年間の財政収支を明らかにしたんだ。」

 「えっ、財政収支は明確になっていなかったの?」

 「その頃、ほとんどの藩では明確に把握はしていなかった。その『会計一円帳』の作成によって、米

沢藩では年間2万8000両の赤字を出していることが分かった。とても、支出を抑えるだけでは解決で

きないと思った鷹山は農村の復興に着手する。鷹山自らが鍬を入れ、延べ1万3千人の武士を動員し

て荒れ地を開発して米の増産を図った。しかし、それは、特に米沢藩の上級武士に強い反感を生

み、鷹山23歳の時、『七家騒動(しちけそうどう)』が起こる。」

 「『七家騒動』って何なの?」

 「『七家騒動』とは、家老など旧臣七人が『七家訴状』を持参し、鷹山を一室に監禁して、その頃、城

代家老となって改革を進めていた竹俣当綱の罷免を求めて、4時間も押し問答を蹴り返したことが発

端となっている。」

 「そんなことが許されたの?」

 
     

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