『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「吉宗は紀州藩第2代藩主・徳川光貞(みつさだ)の四男として生まれた。しかし、兄たちが次々と

亡くなって紀州藩第5代藩主となった。そして、4歳で第7代将軍となった家継が6歳で病没したため

に、徳川宗家に跡継ぎがいなくなったことにより将軍となった人なんだ。

 彼は、将軍に就任すると、側用人の間部詮房や新井白石を罷免し、新たに御側御用取次(おそば

ごようとりつぎ)という役職を設け、事実上、側用人制度は継承する。

 彼は米将軍とあだ名されたように、基本的には米の生産に依拠した世の中に戻そうとした人だと

思う。年貢を四公六民から五公五民に増税するなどしたため、百姓一揆の頻発を招くなど経済は混

乱した。そこで、心ならずも貨幣改鋳を行い貨幣供給量の増加を図っている。

 ただ、綱吉を尊敬しており、目安箱を設けて庶民の意見を聞き、小石川養生所を設置するなど、綱

吉から学んだ庶民に目を向けた政策も行っている。

 また、足高(たしだか)の制という能力主義の人材登用制度を作っている。越前守大岡忠相(えちぜ

んのかみおおおかただすけ)はこの制度により町奉行に抜擢されたんだ。それから、公事方御定書

(くじがたおさだめがき)を制定し、裁判のスピードアップを図ったりもした。そして、商品作物や酪農

などの新しい農業を推奨したりもしたけれども、基本的には米本位制の世の中を考えており、庶民に

まで倹約を強制したため、有効需要を縮小させることになってしまった。したがって、彼の幕府財政改

革は失敗に終わっている。」

 「じゃ、有効需要を拡大させるような政策をとった幕臣はいなかったの?」

 
     

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