『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』
「信綱は、これ以上交渉が長引くと、全国の隠れキリシタンが決起するかもしれないという恐れを
持っていたに違いない。また、ポルトガルの参戦を招いてしまうと、内戦ではなくポルトガルとの戦争
になってしまうので、総攻撃を決断せざるを得なかったのだと思う。小競り合いで亡くなった籠城者の
胃の中を調べてみると、兵糧もつきかけているのが分かった。今なら鎮圧軍の被害を最小限にする
戦いができると考えたのだと思う。そして、今後このような反乱が起きないように、見せしめのために
も皆殺しを命じたのだと思う。
最近の遺骨の発掘調査によると、上半身が切断されている遺骨が多数発見されている。」
「どうして、そんな残酷なことをしたの?」
「当時、キリシタンは復活すると信じられていたらしい。復活できないようにと上半身を分断したもの
と思われる。籠城していた者たちのほとんどが殺された。
そして、その後大きな反乱は起きなかった。島原の乱は室町時代後半から続いた戦乱と、江戸時
代の平和とのターニングポイントとなったんだ。ただ、幕府は、全国にいる隠れキリシタンをあまり追
い詰めると、またこのような反乱を起こすかもしれないと考えたのか、隠れキリシタンたちが表面上ど
こかの寺の檀家になってさえいれば、『宗門心得違(しゅうもんこころえちが)いの者』として黙認する
ことにした。
戦後処理としては、島原の領主は改易の後、斬首。天草の領主は領地没収で、天草は幕府直轄
領になる。天草の代官に任命されたのが鈴木重成(すずきしげなり)で、彼は天草の復興に誠心誠
意尽力した。天草の石高半減を幕府に訴えて、却下されると切腹してしまった。幕府は病死と発表
し、重成の養子となっていた鈴木重辰(しげたつ)を二代目の代官に任命した。そして、彼が代官の
時に、幕府は天草の石高半減を認めた。農民たちは鈴木親子に感謝して鈴木神社を建て、今でも尊
崇している。
その鈴木重成の兄が日本の思想史上、日本の社会に大きな影響を与えた鈴木正三(しょうさん)な
んだ。重成の養子・重辰は鈴木正三の実子なんだよ。
山本七平は、『日本資本主義の精神』において、鈴木正三を日本の資本主義の精神を作った人物
として紹介している。」
「鈴木正三ってどういう人なの?」
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