『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』
「家康は、自分が信長や秀吉のような天才ではないと思っていたに違いない。だから、古今東西の
優れた人物から学ぼうという姿勢が強かったのだと思う。唐の太宗(たいそう)の政策問答集『貞観
政要』を愛読書としていたし、武田信玄(たけだしんげん)からは軍制などを学んでいる。また、信長
や秀吉の治世が長続きしなかったのはどうしてなのか、ということも深く考えたのだと思う。」
「考えた結果、家康はどうすればいいと思ったの?」
「権力を握った家康は、権威も備えなければならないと考え、家系図を捏造させて自分は源氏の血
筋だということにして、天皇から征夷大将軍に任じてもらった。また、それだけでは心配になった家康
は、朱子学を官学として取り入れ、大名たちに忠誠心を植え付け、彼らが反乱を起こさないようにし
た。しかし、皮肉なことに朱子学を官学にしたことが、幕末の幕府転覆の動きになっていくんだ。
それから外様(とざま)大名には広大な領地を与えても、江戸から遠方に配置して幕政には参加さ
せず、譜代(ふだい)の大名は老中などとして幕政に参加させる代わりに領地はあまり与えないとい
う形を取り、反乱が起きないようにした。そして、室町時代の争いの大きな原因であった家督相続に
ついては、実力ではなく長子相続と決めて家督相続争いが起きないようにした。
宗教政策も大きな要因だと思う。家康は、信長・秀吉が行った宗教勢力の武装解除をさらに推し進
め、寺院や神社を体制内に取り込んでいった。彼は、1612年(慶長17年)にキリシタン禁止令を出す
と、翌年にはそれを全国的なものにした。また、3代将軍家光は、キリシタンではないことを証明させ
るということで、民はすべて、どこかの寺の檀家になるという寺請(てらうけ)制度を作った。そして、
寺院や神社が寺社奉行の管轄下に置かれたことにより、寺院は幕府の戸籍係のような役割を果た
すことになり、幕府の下部組織のようなものになってしまった。以後、日本の仏教は葬式仏教になっ
てしまい、宗教団体としては堕落してしまう。
最後に、これも信長・秀吉の継承なんだけれども、家康は自分の死後、自分を東照権現(とうしょう
ごんげん)、つまり神として祀れと秀忠に命じている。家康は盤石(ばんじゃく)の体制を作りたかった
んだと思う。」
「盤石の体制にしようとして、朱子学を官学にしたということだけれども、それが幕府転覆につなが
っていったというのはどうしてなの?」
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