『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「実は、明治時代にドイツ軍の参謀が関ヶ原の布陣を見たとき、この戦いは西軍の勝利と判断した

んだ。」

 「東軍が圧倒的に優位であったわけではないんだね。じゃ、どうして家康は秀忠(ひでただ)の軍が

到着するのを待たなかったの?」

 「東軍には、福島正則(ふくしままさのり)などの豊臣恩顧の武将たちがいて、戦況が長引くと彼ら

がどう動くか分からなくなるという不安があったんだと思う。それに、吉川広家(きっかわひろいえ)や

小早川秀秋(こばやかわひであき)が家康の調略に呼応していたこともあった。だから、家康は秀忠

の軍を待たずに、ここが勝負の時だと決断したんだと思う。

 戦いの最初は、大谷吉継や宇喜多秀家らの奮闘により西軍優位だったけれども、小早川秀秋が吉

継の軍に切り込み、吉継の軍が崩れると西軍総崩れとなり、たった1日で戦いは終わってしまった。」

 「福島正則は年少の頃から秀吉に可愛がられた武将だし、小早川秀秋などは秀吉の甥でしょ。彼

らはどうして家康の味方になったの?」

 
     

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