『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「関ヶ原の戦いから百年ほどたった元禄時代頃かららしい。元禄時代に記された『石田軍記』には、

三成の家は貧しくて三成を養育できないので寺に預けたと書いてある。しかし、実際は、三成の家は

近江の一土豪で、三成に学問をさせるために寺に入れたらしい。その他、江戸時代に三成について

書かれた書物には、三成の評価をおとしめる内容が多い。」

 「それは、戦争に勝った徳川方が、負けた三成をおとしめようとしたということなの?」

 「そうだね。関ヶ原の戦いにあたって、三成は、各地の戦国大名に、家康がいかに豊臣家を裏切っ

ているかをしたためた書状を出している。

 家康は大坂城も落とし実力で天下を取ったわけだけれども、これから全国を統治していくにあたっ

て、権力の正当化を確保していく必要があった。そのためには、三成が出した書状が邪魔だった。そ

れを打ち消すには、実際とは違ったおとしめられた三成像を作っていく必要があったんだと思う。」

 「じゃ、実際の三成って、どんな人物だったの?」

 
     

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