『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』
「朝鮮に渡った16万人の軍の総大将は宇喜多秀家(うきたひでいえ)だったんだけれども、彼は軍
全体の統制を執ることができなかったという点が要因の一つとして挙げられる。それでも、鉄砲など
の装備が進んでいたので緒戦では連戦連勝だった。それで、調子に乗った加藤清正(かとうきよま
さ)などが勝手に女真族(じょしんぞく)の方まで攻め上がっていったため、補給路が延びすぎてしま
ったんだ。そして、明の援軍や朝鮮のゲリラが補給路を断ち切ろうとした。また、日本軍は厳寒の朝
鮮半島の冬装備をしていなかった。そういったことで、日本軍は飢えと寒さで、戦えるような状態では
なくなった。
そこで、石田三成(いしだみつなり)や小西行長(こにしゆきなが)らが講和に持ち込んだのが、文
禄(ぶんろく)の役と呼ばれる。
その講和条件を知った秀吉は激怒し、再び朝鮮に攻めていった。それが慶長(けいちょう)の役な
んだ。慶長の役は秀吉の死によって終了する。」
「その後、天下を取ったのは家康だよね。関ヶ原の戦いで家康と戦った石田三成は、最近、評価が
変わってきたんだってね。」
「石田三成というと、秀吉の権威を笠に着た『虎の威を借る狐』といったイメージや非情・冷徹で横
柄な態度の官僚で戦いには弱いといったイメージが強いよね。」
「そのようなイメージが流布したのは、いつ頃のことなの?」
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