『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「信長の次男・信雄(のぶかつ)は、賤ケ谷(しずがたに)の戦いでは秀吉と同盟し、勝家・信孝同

盟軍と戦い、信孝を自刃に追い込んだ人物なんだけれども、その後、秀吉と対立するようになり、家

康との同盟を求めたんだ。」

 「そこで起こったのが小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いだよね。秀吉は、長久手の戦闘では

負けたけれども、それで勝負が決まったわけではないよね。秀吉はその戦闘の後、どうして撤退した

の?」

 「秀吉はその頃、大坂城を築造中だった。今は多大な損害を出すわけにはいかないと考えたんだと

思う。多分、秀吉は、信雄は容易に籠絡できる人物であると読んでいたに違いない。そして、その通

りになって、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和してしまう。そうなると、家康も戦いの大義名分が

なくなってしまい、秀吉と講和せざるを得なくなった。

 秀吉は、その翌年、四国を平定すると、再び家康攻略の準備を進めた。兵糧米の備蓄などを着々と

行い、家康を滅ぼすつもりだった。」

 「それがどうして融和策に転じてしまったの?」

 
     

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