『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』
「勝家は、自分が烏帽子親(えぼしおや)つまり後見人となっている信長の三男・信孝(のぶたか)
を推していた。しかし、秀吉が筋目が大事と主張したことで、結局、長男・信忠(のぶただ)の子・三
法師が家督を継ぐことにはなったんだけれども、信孝は三法師は自分が養育するということで、三法
師を自分の城である岐阜城に連れて行ってしまった。また、秀吉の領地であった長浜も勝家に譲るこ
とになったし、勝家はお市の方と結婚し、織田家とのつながりを益々強めていったんだ。」
「秀吉が苦境に立たされたというのは、そういうことだったんだ。秀吉はそれに対して、どのような手
を打ったの?」
「秀吉の起死回生の一手とは、信長の葬儀を執り行うことだった。」
「勝家は織田家と深い関係になっていたし、織田家の家督は三法師が継いで、信孝の城である岐
阜城にいたんでしょ。どうして勝家は信長の葬儀をしなかったの?」
「本能寺の変の後、信長の遺体が見つからなかったので葬儀ができなかったんだ。」
「秀吉は遺体もないのに葬儀をしたの?」
「織田家の菩提寺である大徳寺総見院(だいとくじそうけんいん)に、秀吉が作らせた信長の木製
座像が安置されている。秀吉はそれと同じ物を沈香木(じんこうぼく)で造らせて、それを信長の遺体
に見立てて荼毘(だび)に付したんだ。」
「沈香木ってすごく高価なんでしょ。今の価値で言うとどれくらいしたの?」
「5億円ないし10億円ぐらいするのではないかという高価な物だった。それを荼毘に付したとき、芳
香が都中に漂ったんだと思うよ。葬儀には宗派を問わず数知れない僧が集められ、見物人は雲霞
(うんか)のごとくであったという記録が残っている。人々は次の天下人は秀吉だと感じたに違いな
い。お金と香をばらまいた、秀吉の一大パフォーマンスだった。この時点で勝家との勝負は決まった
ようなものだったと思うよ。」
「勝家を倒した後の強敵は、家康と北条だね。秀吉は家康に対してはどう対処したの?」
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