『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』
「秀吉は尾張の農民の子で、8歳の頃父親が亡くなり、母親・後の大政所(おおまんどころ)が竹阿
弥(ちくあみ)と再婚したんだけれども、その継父と折り合いが悪く、家を出て大分苦労したらしい。
秀吉が晩年に描かせた肖像画は、顔と手が異常に小さく描かれている。これは、秀吉のコンプレッ
クスが反映されているんだと思う。彼は身長が低かったので、絵師に顔を小さく描かせることによって
自分を大きく見せようとしたのだと思う。また、手を小さく描かせ、親指を隠すような構図になってい
る。これは、秀吉の右手の親指が2本あったためらしい。秀吉はこの右手の6本目の指を切り落とさ
なかった。あえて切り落とさず、身長の低さや、『猿』と呼ばれたような容貌、6本指などのコンプレッ
クスを、強力な上昇志向のエネルギーに変えていたのだと思う。」
「そんな農民の子が、どうして関白にまで上り詰めることができたの?」
「信長も秀吉も尾張で育っている。尾張は平野が広がっており農業生産力が高く、交通の便も良く
て商業が盛んであった。そういった土地柄もあって、二人とも商人的合理性を身に付けている。信長
も秀吉も、伝統主義的行動様式の習性を突破した、目的合理的行動を取ることができたという点が、
他の戦国大名に競り勝っていくことができた重要な要因であったと思う。
秀吉は、人間でも道具でも役に立つものを好むという信長の性向にかなった人物だった。二人はそ
のような合理主義者という点では似たもの同士だったと思う。そして、秀吉は信長からいろいろなこと
を学んだに違いない。大坂城を築城し、大坂を政治と経済の中心地とすることや、唐入りの構想など
も信長から学んだことと思う。また、秀吉が信長に勝っている能力もあった。」
「それって何なの?」
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