『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「信長は自分に従う者には優しかったらしい。戦いの後、死傷者の報告を聞くと人目をはばからず

涙を流して悲しがったということが『信長公記』に書いてある。また、戦国時代には、自分の娘を人質

同然に政略結婚させるのが普通に行われていたのだけれども、信長は、妹のお市の方を政略結婚

に利用したけれども、娘たちは自分の家来などに嫁がせている。また、秀吉の妻・お寧(ね)に宛てた

手紙にも細やかな優しい配慮が見られるんだ。」

 「じゃ、どうして比叡山焼き討ちの時、皆殺しを命じたの?」

 「信長は、自分に従わない者には非常に厳しかった。しかし、現代の価値観で当時の人間の行動

を判断してはいけないと思う。領民に非常に慕われていた北条早雲(ほうじょうそううん)でさえ、自分

に従わない場合は、女・子供でさえ首をはね、さらして見せしめにした。そういう戦国時代の厳しさと

いう時代の枠組みを考慮する必要がある。

 また、当時、比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)、浄土真宗の本願寺、日蓮

宗の寺など大きな寺社は、荘園の所有、各種の座に特権を与えることによる利権、関所から上がる

通行税など、多くの既得権を持つ経済的な特権階級だった。そして、その既得権を守るために僧兵な

どを雇って武装し、お互いを襲撃したり、争っていた。日蓮宗徒の法華衆が浄土真宗本願寺を襲撃し

たり、1536年(天文5年)の天文法華の乱では、比叡山延暦寺の僧兵が京都の日蓮宗の寺を襲い、

法華衆が3千人ないし1万人が殺害され、この時の兵火による被害規模は応仁の乱を上回るもので

あったという。

 その比叡山延暦寺は、浅井(あざい)・朝倉(あさくら)との戦いに少なくとも中立でいるようにとの信

長の要請を無視して、浅井・朝倉の味方をした。天下布武を宣言し、国内に秩序をもたらそうとする信

長にとって、それは許すことができないものだった。どうしても徹底的に排除しなければならない存在

だった。ただ、宗教そのものを迫害するつもりはなかったと思う。政治の世界から宗教を分離しようと

したんだ。それは、秀吉の高野山に対する武装解除命令や刀狩りによって徹底され、家康による仏

教界の統制によって完成する。

 16世紀というと、西欧でも宗教戦争であるユグノー戦争が起こり、サン・バルテルミの虐殺が行わ

れたりしている。日本でもそうなる可能性はあったんだ。それを考えると、信長は日本の政治の近代

化に大きな貢献をしていたということになる。」

 「その信長に明智光秀(あけちみつひで)はどうして謀反を企てたの?」

 
     

       -114-

 MENUに戻る