『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「後醍醐天皇は真言密教を学び、空海のような神秘的パワーを持ちたいと願っていたようなんだ。

また、朱子学の徒であり、関東の武士たちを東夷と呼び、天皇こそ日本の実質的な支配者であるべ

きと考えていた。そして、単に天皇親政にするというだけではなく、中国の皇帝のような絶対的権力を

握ろうとしていた。彼は日本人離れした人物で、自分の先例破りの政治が未来の先例となると言って

いる。」

 「どうして、それが失敗したの?」

 「桓武天皇が徴兵制を廃止してから、朝廷は軍隊を持っていなかった。それは、日本が島国で安全

だったからというだけでなく、穢れを嫌う公家たちの価値観もその原因となっている。

 また、元寇の弘安の役の時、北条時宗(ときむね)が北九州の海岸沿いに防塁を築き、二ヶ月もの

間、上陸を阻止したので、夏のことだから当然に台風がやってきたということなのに、公家たちや神

官たちは武士たちの活躍を評価せず、我々が神々に祈ったから神々が神風を起こして日本が勝利し

たのだと言っている。そのような言霊(ことだま)思想も、朝廷が軍隊を持たない原因の一つになって

いる。

 そこで、国内の治安が悪化し、自分の土地を守るために有力農民が武装するようになり、武士が誕

生していった。

 後醍醐天皇は、その武士たちが作った政権である鎌倉幕府を倒すために、幕府に不満を持つ武士

の力を借りなければならなかった。ところが、建武の新政において、それらの武士たちへの恩賞が不

公平で、武士たちの不満が高まっていった。その武士たちの不満を吸収することで権力を握っていっ

たのが足利尊氏(あしかがたかうじ)なんだ。足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府を開くことにな

る。」

 「どうして、その後、南北朝の動乱が長く続いてしまったの?」

 
     

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