パウロは,「新約聖書」の一編である「ピリピ人への手紙」・「ガラテヤ人への手紙」の中で次のように言っています。
「わたしは八日目に割礼を受けた者,イスラエルの民族に属する者,ベニヤミン族の出身,ヘブル人の中のヘブル人,律法の上では
パリサイ人,熱心の点では教会の迫害者,律法の義については落ち度のない者である。」 「そして,同国人の中でわたしと同年輩の多
くの者にまさってユダヤ教に精進し,先祖たちの言い伝えに対して,だれよりもはるかに熱心であった。」
パウロの両親は,ユダヤ教徒としての生き方を,幼いパウロに情熱を込めて教えたことと思われます。彼の両親
は,ヘレニズム文化の都市であったタルソに住むディアスポラのユダヤ人であったので,彼らがユダヤ教徒としてのアイデンティティを維
持するのは,そう容易ではなかったからです。つまり,幼いパウロにとっては,ユダヤ教文化は選択しようのない唯一の自明の現実であ
り,そして,パウロが,ユダヤ教文化を唯一の自明の現実として内面化していくことが,異郷の地にあって脅威にさらされている両親のユ
ダヤ教徒としてのアイデンティティの維持にかなりの貢献をしただろうと推測される,ということです。ユダヤ教文化の要は,唯一絶対の
人格的創造神・ヤハウェの存在を信じることです。そして,ヤハウェとイスラエル民族との間の契約を信じることです。イスラエルの民が
その契約を守るということは,すなわち,ヤハウェから与えられた律法を遵守するということになります。したがって,ユダヤ教徒にとって
は,律法遵守は,自分のアイデンティティに関わる重要な事柄でした。ところで,目の前に現れない神が,人間の人格に大きな影響を与えるということが可能でしょうか。私は,それは,大いにあることだと
思います。子どもが幼いときに父親が死んでしまっても,母親が子どもに,父親のことを繰り返し話して聞かせていれば,子どもの心に父
親のイメージができあがり,その父親のイメージとの関係において,その子どもは大きな人格的影響を受けるでしょう。パウロは幼い頃,
母親を通して,ヤハウェのイメージをおぼろげながら,心の中に形成していったことと思われます。そのようにして,ヤハウェは,パウロ
の幼時から,彼の心に大きな影響を与える人格神として立ち現れていたのです。ユダヤ人の家族は宗教的共同体でもありました。パウロの家族も,ユダヤ人特有の祭事を催し,父親を祭司として家族全員が参加し
たことでしょう。人間が神の被造物であり,神の所有物であるのに対応し,子ども達は父親の所有物と見なされました。子どもを純真とみ
る見方はユダヤ人の伝統にはありません。「愚かなことが子どもの心の中につながれている。懲らしめのむちは,これを遠くへ追い出す
。」(箴言22・15) 父の激しい怒りは神の怒りを想起させます。パウロにとって,父親は,父なる神の縮図でもありました。父親は,幼い
パウロに十戒を教え,神がイスラエルの民に行った,驚くべきあらゆる事柄を語って聞かせたことでしょう。こうしてパウロは,前述の「手
紙」に書いてあるような,熱心なユダヤ教徒としてのアイデンティティ形成の方向性を与えられたのです。
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